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喜岡城跡は高松市東部の古高松町にあり屋島の相引川の南約700mに位置し、現在は小丘陵地上に喜岡寺と権現社が有ります。
この辺りが本丸、ニの郭と考えられ面積は約4800m²で明治時代の野取図には周囲に空堀跡が描かれて居りますが昭和五十五年の区画整備の開発で埋められたものと思われます。
本丸、二の郭の周りには喜岡寺の墓地や公園等は帯郭の跡と見えなくはないが定かではない喜岡城は高松三郎頼重の居城として築かれました。
頼重は始め船木頼重と名乗っていました。
船木氏は摂津守頼光の十代後の土岐隠岐守光貞の男で隠岐孫三郎と称していました。
建武ニ年、讃岐の守護となり高松に居を定めてから姓を高松と改めました。
建武ニ年十一月讃岐坂田荘で細川定禅が挙兵。
それより先に足利尊氏が旗をあげていた。
定禅は尊氏に心を寄せ香西、詫間氏らと連携し瀬戸内海の制海権を得ようとしたのであります。
一方、高松頼重は迎え討つ為、喜岡城を出て屋島の麓に布陣したが讃岐に赴任して間もない為、味方する者は少なかった。
それに対し定禅方には詫間、香西、三木、寒川らの諸豪族が馳せ参じ数は三百余になった。
定禅は夜襲をかけ頼重の老父や一族十四人、郎党三十余人を討ち取られました。
頼重は辛うじて屋島から船で逃れました。
こうして喜岡城は細川定禅の手に落ちました。
その後、高松氏が喜岡城に入り修復しました。
戦国時代になり高松左馬助頼邑の時に香西氏に属します。
土佐の長曽我部元親の讃岐侵攻で香西氏が敗れ長曽我部氏に属し、高松左馬助頼邑も共に属します。
天正十一年に豊臣秀吉の命で仙石秀久が二千余人にて喜岡城を攻めるが左馬助良くしのぎ仙石氏を小豆島に退去させます。
その二年後の天正十三年四月ニ十六日に宇喜多秀家など七将、三万八千(二万三千の説が主流)にて喜岡城を攻めました。
十河存保が先鋒だったようです。
高松左馬助頼邑、唐人弾正、真鍋彌助、片山志摩など奮戦するが、将兵二百余名と共に全員枕を並べ討ち死にし喜岡城は落城いたします。
生駒氏が讃岐に入府した後、郷の総檀那衆により城跡に喜岡寺を移築再建致しました。
ここ喜岡寺に高松左馬助頼邑の初め唐人弾正、片山志摩の墓があります。
名前 |
喜岡城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
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