名前 |
智回尼の石仏 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
子産石地蔵堂には智回尼に見立てた子産石が安置されています。
昔、この辺り一帯の山を観音山と呼び、この場所には小さな観音堂がありました。
ある日、一人の年老いた智回という尼僧が、この観音堂に一泊の宿をとりましたが、堂内より見下す眺望の美しさと、温暖な気候に数日を過ごすうち、里人から石が子を産むという、珍しい子産石の由来を聞かされました。
すっかり気に入った智回尼は、ひそかにここを生涯の終わりの地と決めたのです。
ある年、今までにない大飢饉に村の人々は苦しんでいました。
人が人を食べる地獄のような日々が果てしなく続き、哀れに思った智回尼は、この人々の苦しみを全て一人で受け止め、この村人達を苦しみから救うべく、僅かな木の実と水だけを口にしながら十一面観音に祈りを捧げました。
体の肉を落とし骨と皮だけになった智回尼は海の見える観音堂の境内に穴を掘って石室を造り、春まだ寒い二月のある日、村人を集め、白装束に身を清め、手に持ち打ち鳴らすカネが鳴り止み、読み上げるお経が聞こえなくなった時こそ、人々の苦しみを全て受けとめる時であるとして、村人に静かに別れを告げて自ら入定しました。
石室は土を盛られ、ただ一本の竹筒を通して僅かな空気が入るのみです。
智回尼は読経を唱え、死に向かって鉦を叩き続けました。
次第に細りゆく声、鉦は時には強く、時には弱く、七日七晩の間は響いていました。
やがてそれも聞こえなくなると、村人は合掌し泣き崩れました。
村人達は、入定した墓穴の上に土を盛って聖地とし、 近くの海で発見された地蔵菩薩に似た子産石を智回尼に見立てて建立し、ねんごろに弔いました。
それから数百年の歳月が流れ、伝説は語り継がれました。
大正九年(1920)、当時の村人によってこの墓穴の発掘作業が進められました。
墓穴の周囲には石が四角形に積み上げられ、150cmほど掘り下げられた底からは、紛れもない智回尼の遺骨が、枕を西にして座ったままの姿で発掘されました。
今では訪れる人も少ない小さな祠に、赤い涎掛けを掛けた子産石地蔵が鎮座しています。
軽トラがギリギリ通れるかどうかな急坂なので、車で行くのはおススメしません。