2021年7月27日に訪れました。
石川城跡(大仏ヶ鼻城跡) / / .
桜から始まり、秋までの紫陽花癒される場所です。
GW頃は、遠目にも桜色になり、目立ちます。
7月頃はあじさいが綺麗です。
山頂と言うのでしょうか、展望も抜群です。
中腹に今は入れませんが、洞窟があり、抜けられます。
噂では城からの脱出のためだそうです。
見晴らしがステキ。
アクセスは、だんだん道路幅が狭くなり、冬は注意が必要かも。
弘前の歴史に想いを馳せるのに最高です。
完全に公園化しています。
あじさい祭推しです。
津軽為信に攻められて南部氏の無念を書き連ねた石碑があり、史跡であることを伝えていました。
石川城として訪ねて来ました。
現在、城の遺構はさほど見てとれなくて、非常に残念でした。
地形そのものでは、かなりの要害の地だったことが伺えます。
かなり有名な城跡だと思いますが、地元でもあまり押してない様子です。
どちらかというと、地元では堀越城跡や弘前城をおススメしているように感じました。
自分的には浪岡城とここ石川城が気になっていたのですが、浪岡城は素晴らしく良く保存されていましたので、そちらで我慢するしか無いようです。
かの戦国ゲームでは有名な石川城 実は弘前城の前の名前だと思ってましたが、堀越城へ行って目と鼻の先と書かれていたので、急遽ここへ足を運びました。
堀などの規模が分かりませんが、館のあったであろう所は、かなり急な坂で、攻め辛い城であったことを想起させてくれます。
7月6日に訪問。
少し早かったですがゆっくり散策できました。
紫陽花がキレイな公園です。
紫陽花素晴らしかったです。
坂の傾斜がヤバいのでしっかりとしたシューズがおすすめですね。
名前 |
石川城跡(大仏ヶ鼻城跡) |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト |
http://www.hirosakipark.or.jp/sakura/sonota_sakura_meisyo.html#daibutu |
評価 |
3.7 |
2021年7月27日に訪れました。
鎌倉時代に相模・曽我氏が、平賀一帯の地頭となったそうです。
その地頭代として平広忠が岩館に入り、曾我氏を名乗ります。
曾我氏が、ここ石川の地周辺に12の館を築き、石川館も含めた13の館の総称が、石川城と言われています。
鎌倉時代が1333年に終わり、執権であった北条家の安達高景と名越時如が落ち延びて来て、大光寺城の曾我道性が匿いました。
室町幕府側の曾我(岩館)分家の曾我光高に大光寺城は、攻められて落城しました。
曾我道性らは、石川城に逃げ延びたそうです。
その後、陸奥国司・北畠顕家や根城南部氏の南部師行らに曾我道性は、攻められて滅亡しました。
南部氏は、1443年に十三湊安藤氏を渡嶋(蝦夷地・北海道)に追いやります。
そして津軽一帯に勢力を拡大し、石川城には、後に田子城主だった南部高信が、天文2年1553年に派遣されました。
彼は、津軽郡代となり、それ以後、石川高信と名乗ります。
元亀2年1571年に大浦為信(津軽為信)は、堀越城を出発して石川城を急襲しました。
その時に石川高信やその妻子は、自害したと言われています。
この一件から大浦為信の津軽統一が開始されました。