説明板とか無いし、現地で見ても珍しさがわからなかっ...
キサカタのいわれを知らないと、どこを見るのかわからないと思います。
道の駅の展望台から俯瞰すると、地形がよく解りました。
解説もありました。
2021/05/04に訪問。
半分くらいの田んぼに水が張ってあったのでなかなか良い景色。
島っぽく見えるスポット探し。
鳥海山の崩落と 土地の隆起によってできたそう。
面白い地形で展望台からの 一望も 見応えあり 。
水田に水が張られた時期だともっと志摩らしく見えて良いでしょうね。
夏は稲穂が しっかりと 育っていたので、 最初何のことだかよくわからなかった。
歴史をさかのぼると、紀元前466年に鳥海山が噴火し山体崩壊が起こり、流れ山が日本海まで流れ込み、多くの小島ができた。
その後に砂洲が発達し、内側に潟湖ができあがり、潟湖に小島が浮かぶような地形となった。
松の木が生えた多くの小島が内海に広がる風景は、「九十九島、八十八潟」と呼ばれ、風流の勝地となった。
平安時代中期に能因法師が象潟にやってきた。
「世の中はかくても経けり象潟の海士の苫屋をわが宿にして」(能因法師)能因法師はこの有名な歌を詠み、そしてなんと、象潟の景色が気に入ったのかこの地に3年間も住んだそうだ。
鎌倉時代初期に、西行が象潟を訪れた。
そして次の歌「きさかたの桜は浪にうづもれて花の上こぐあまのつり舟」(西行)象潟の水面に散り広がる桜の花びらの上で舟を漕ぐというもの。
そして江戸時代、能因法師と西行に憧れてやってきたのが松尾芭蕉。
舟で島巡りに出掛け、真っ先に着いたのが能因法師が3年間隠棲していた能因島。
その次は西行ゆかりの桜の老木を見学。
芭蕉は象潟の風景を、憂いに沈んだ美女の面影に似ているとし、「象潟や 雨に西施が ねぶの花」(松尾芭蕉)と詠んだ。
その頃の象潟は、悠然と裾野を広げる鳥海山を背景として、九十九島・八十八潟が広がっていた。
江戸時代の紀行家である菅江真澄は「春来れば白桜の花影をうるおし、青松翠陰を落とす。
佳興殊に甚だし。
」「其の好景、東溟の松島と相い表裏す」(出羽日記)と記している。
ところが1804年に象潟地震が起こり、象潟は隆起して陸地化してしまった。
水田が広がる中にかつての小島が点在する現在の光景になった。
明治時代に象潟を訪れた正岡子規は、「象潟は昔の姿にあらず、塩越の松はいかがしたりけん。
」(はて知らずの記)と嘆き悲しんだ。
象潟きさかた秋田県にかほ市象潟町大塩越73−1別添画像の水田の中の松のある小さな丘は湖の中の小島であったが1804年の象潟地震で海底が隆起水田の中の丘となる松尾芭蕉の「奥の細道」(1689年)の時は当然水面に浮かぶ小さな松島が点々とあった芭蕉の一番感動した風景と思います象潟や雨に西施がねぶの花蚶満寺(かんまんじ)の駐車場に車を止めお参りの後徒歩で見学出来ます素晴らしい眺望でした遥々象潟まで来た値打ちがありました蚶満寺山号t皇宮山宗旨t曹洞宗本尊t釈迦牟尼仏。
とても自然でとても良かったです‼とてもよかったです🙆
自然の人工的な庭園❓ 紀友則(小倉百人一首の歌人)「久かたの ひかりのどけき春の日に 静こころなく はなの散るらん」は此処をモチーフにして詠んだ和歌ではないのですが、象潟という地名に触れる度に思い出してしまいます。
象潟の往時の風景は平安の日本庭園のようで和歌が似合う場所だったように想うからです。
俳人松尾芭蕉や小林一茶も訪れたというお話ですが、自然の風景なのに人工的なお庭の雰囲気が漂う、穏やかな風光明媚な場所です。
往時は浅い湖沼で水に浮かぶ島が点々としていたそうだが、周囲は田圃になり、見ようによっては枯山水(緑山水?)的な場所でしょうか。
鳥海高原から降りていく時の眺めがなかなか。
道の駅「象潟ねむの丘」を左へ出て初めての三叉路を右折、象潟らしい景色が出てきたら脇の細い道に入りこみます。
あとはこの景色を見ながら右周りのルートを走ります。
と、自然にR7出ることができます。
江戸時代には東の松島、西の象潟と言われ、松尾芭蕉や小林一茶も立ち寄ったそうですが1804年の地震で陸地化。
水田に浮かぶ島々はかつての海だった象潟を彷彿とさせられます。
国の名勝で天然記念物です。
散策できますが農家の方々の作業の邪魔にならないようにお気をつけください。
近くの道の駅 象潟 ねむの丘に車を止められます。
象潟駅前付近から、松尾芭蕉がたどった道を歩く、『きさかたさんぽみち』もあり、象潟の町並みを散策できる。
雨に西施が合歓の花。
高台から見下ろしたい。
名前 |
象潟 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0184-32-5588 |
住所 |
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評価 |
4.2 |
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説明板とか無いし、現地で見ても珍しさがわからなかった。