山道は急な階段なので降雪時などは注意が必要です本殿...
幼い頃から親しみある神社⛩で天気が良く桜🌸も咲き始めたので写真📸を撮ってきました😀
海ユリの化石が銭形に見えるとのことで、銭金石なる岩があり、ここの水でお金を洗うようになっておりました。
眺めが良い丘の上のお社。
ただし、登り口が狭く、車同士すれ違えない上に、駐車スペースも広くないので、注意が必要です。
御朱印は書置きのものが三種類用意されていました。
芭蕉の句が有り龍神が多く祀られ繁栄されていたのではと想像します。
無人の御守り等販売所が有りました。
書置となりますが三種類の御朱印が用意されてました。
静かに参拝出来ます。
ちょっとした高台なので町並みも見下ろせます😃
山道は急な階段なので降雪時などは注意が必要です本殿の脇のほうに段数の少ない階段があります。
駐車場があまりないので車で行く時は気をつけた方がいいかもです(´・_・`)
初めて五社参りしました!
東和町米谷秈荷山にあり、永仁元年(1293)葛西佐馬尉重直の建立と伝えられ、代々の地頭たちの崇敬するところであった。
往時この地方は葛西氏の勢力範囲であり、亀卦川氏系譜によれば、建治2年8月(1276)亀卦川胤氏が葛西清信に従い、奥州に下向し采地五百余町を賜り米谷城を築城し、以来、天正18年(1590)葛西氏没落に至るまで米谷城主となる。
建武3年(延元元年1336)奥州勢をひきて長躯上洛し、足利尊氏直義の軍を破った時、葛西軍は数々の戦功をあげましたが、葛西清宗は神楽岡の戦で、新田義貞の身替わりとして戦死し、この戦の後、葛西清宗の家来亀卦川胤明(葛西氏の重臣)が、主君清宗の冥福を祈って伏見稲荷神社に参籠し、帰途に際し守護神として居館(米谷館)の地に社殿を建立し、祭祀して稲荷大明神(銭金大明神・善賀大明神の別名有り)と称する。
亀卦川氏没落後も村人の信仰の厚い社として栄えてまいりましたが、伊達政宗の時代(天正年間)に切支丹の蜂起により社殿が焼失(古記録が無いので詳細は不明)となり、宝永2年(1705)領主高泉長門守の再建と伝えられ、秈荷神社として今日に至る。
明治39年に鹿島神社と諏訪神社が秈荷神社に合祀された時、鹿島神社の社掌が退職し、諏訪神社の社掌髙橋譓之進が、秈荷神社の社掌に専任され、以来今日まで世襲されている。
境内に「うみゆり」の化石があり、その紋様が銭型であるため「銭金石」と称され、秈荷の地名の由来となったと伝えられる。
そこから銭金大明神と称され、三年五年と続けて参拝することで小金(銭)が貯まるとも伝えられている。
また、境内には宝暦5年(1755)米谷住、大肝入亀卦川軍左衛門(俳名・左笠)が、秈荷神社境内に芭蕉の句碑「木の下は汁も膾も桜哉」を建立。
主祭神:倉稲魂命、経津主命、武甕槌命例祭日:5月1日、10月1日。
早朝のお参り。
三種の御朱印があります、
この神社はいつ来ても心が和む。
ずっと居たくなる場所です。
隠されたおいなりさんなのですね。
こころ旅777日目登米市の旅でのとうちゃこ地点火野正平さんが切株に腰を掛けてお手紙を読みました。
最初は鳥居に気付かず通り過ぎ、商店のおばちゃんに場所を教えてもらった後長い階段をぜーぜー言いながら登ったのが印象的でした(*´ω`*)
名前 |
秈荷(ぜんか)神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0220-42-2016 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
五社巡りで伺いました。
とても落ち着ける神社でした。