名前 |
上杉鷹山公籍田碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
愛宕羽山両所神社の向かいの駐車場の一画に建っています。
判読できた原文とおおよその訳文を以下に記載します。
〘原文〙「元帥陸軍大將大勲位功二級彰仁親王篆額米澤之為地山岳四周道路嶮仄不便運輸米價以賤惰農以多藩主鷹山公憂焉農耕者民命之𠩄繫不可一日忽也乃以安永元年三月始卜地於城西闢田四反餘號曰納戸作田其制傚周時籍田公晨整盛儀詣白子春日祠祈穰直赴作田之處自執犁鋤耕之三撥歳以爲常歴丗循行不敢替也而維新之後廃藩爲縣此禮遂絶矣夫米澤藩之善政多可見者至公時諸政悉舉如作田亦其一耳然其餘澤延及今日仰事俯育民皆安堵而凡耕織絲漆之業冠于東北者孰𠀚仰公之遺徳故語及公之舊事人民感泣景慕不置云南置賜郡上長井村遠山即爲公作田之地頃者縣之有志者恐其遺跡乆而或湮滅相謀將建石愛宕山下紀公功徳以傳無窮來請文余雖菲才於公爲血屬私喜縣人之舉克得我意故𠀚敢辞而記其梗概以諗來祀如此明治三十五年 貴族院勅撰議員正三位勲三等秋月種樹撰幷書」〘訳文〙米沢は四方が山に囲まれ道は険しく薄暗く、運輸についても不便だ。
米価は安く怠惰な農民が多い。
米沢藩主の鷹山公はこれを憂い、「農耕は人命の命を繋ぐものであり一日たりとも疎かにしてはならない。
」と言った。
そこで安永元年3月から、城西に土地を選定して四反余りの田地を開墾し、納戸と名付けた。
作田は中国が周の時代の籍田という制度を倣い、鷹山公は早朝に儀式の準備を整えて、白子・春日の祠に豊穣を祈願し、直ちに作田の地へ赴いて自分から農具を執り田を耕した。
思うに歳月は代々受け継いだ伝統を変えてしまうことはない。
しかし明治維新の後、廃藩置県が行われ鷹山公による籍田の礼はついに途絶えてしまった。
そもそも米沢藩の善政の多くは鷹山公の時代の諸政にあり、作田もまた諸政のうちの一つだ。
そういうわけで鷹山公による恩恵は今日にも及び、人々は皆安堵している。
さらに糸や漆の耕織業が東北で一級であることはいずれも鷹山公の遺徳であるから、鷹山公の教訓や行いを尊敬し、人々はみな感泣して仰ぎ慕わない者はいなかったと。
南置賜郡上長井村遠山こそが鷹山公の作田の地である。
しかしこの頃山形県の有志者は作田の遺跡が時間の経過により跡形もなく消えてしまうことを懸念し、相談して愛宕山の麓に鷹山公の功徳を永遠に伝える石碑を建てるため、その碑の文章を私に依頼してきた。
私は菲才だが鷹山公の血族であり、県人たちは私の承諾を得たのだろうと密かに喜んでいたのでこの依頼を辞退するようなことはしなかった。
そうして鷹山公の籍田の礼についてのあらましをまとめ来者に伝え、石碑として祀ることとなった次第である。
〘補足〙最後の部分に関してですが、この石碑を記したのは秋月種樹という人物で、秋月家は日向国(宮崎県)の高鍋藩主を代々継いできた人物です。
そして、上杉鷹山公は高鍋6代藩主である秋月種美の次男として誕生し上杉家に養子として入ったのです。
そのため、秋月種樹は鷹山公の血族なのです。
写真撮影月 令和元年8月。