昭和26年11月まで存在した河川の碑 。
昭和26年11月まで存在した河川の碑 。
正蓮寺川から新淀川までの1km程の区間に存在した。
現在下流部分のみ漁港として残されている河川です。
埋め立てた部分も至るところに痕跡を感じることが出来ます。
阪神電車の鉄橋。
鴻池組研究所。
無優園。
伝法東公園。
が痕跡です。
水の都大阪の 大阪湾への出口でかつては船の往来で相当賑わっていたそうです。
この碑は、大阪市此花区伝法の鴉宮神社の南を通る道路上に設置されています。
この碑は、大阪府内で高度成長期に廃川となった河川について、後世に伝える為に設置されたものの1つで、かつてこの場所に『伝法川』があったことを示すものです。
伝法川とは、旧淀川から分流した中津川を通し、正蓮寺川の中流域で分流し、大阪湾へ注ぐ川でした。
伝法川は、現在の位置関係では、この碑の少し上流付近にある水門跡で正蓮寺川から分流し、鴉宮の東側(此花区伝法2丁目)、阪神なんば線伝法駅すぐ南の伝法川橋梁、伝法幼稚園の敷地(此花区伝法4丁目)、伝法漁港(此花区伝法5丁目)、伝法川水門を通って、新淀川へ合流していました。
伝法川の痕跡としては、『伝法漁港』の他には、阪神なんば線伝法駅南側にある『伝法川橋梁』くらいしかありませんが、『伝法川橋梁』は阪神なんば線淀川橋梁のかさ上げ事業に伴い、除却されることが決まっています。
その昔、伝法川があった周辺にはかつては造り酒屋が集積していたとの事で、醸造したお酒は酒樽に詰めて樽廻船に載せ、伝法川から大阪湾に出て、海路を伝って江戸まで運んだそうです。
それらの樽廻船は、頻繁に伝法川を出入りしたため、大阪の水運の玄関口と呼ぶにふさわしい賑わいだったそうです。
伝法川周辺では、工業化が進むに従って、地下水の汲み上げ過ぎが深刻な問題となっていきました。
伝法川は、1951年から埋め立てが始まり、現在は、伝法漁港から伝法水門に至る部分が名残を留めるのみとなりました。
名前 |
伝法川跡の碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.5 |
前の正蓮寺川が埋め立てられて公園になり、伝法川がある頃の航空写真が掲示されています。
当時は泳げる位綺麗だったそうです。