小高くなったここだけが目立っていた。
地名の由来に興味ひかれます。
長柄の天満橋筋の道路横に神木があります。
泊まったところの近くで便利だし美味しかった。
地元の人が早朝お参りしていました。
大きな道路を作るとき、この場所を残して道をずらしたんだと言ってました。
意識していないと見落としてしまう位、こじんまりとしていましたが、なんていうか、ホッと出来る雰囲気を感じました。
長柄長者の姫の死後、鶯が悲しみの余り後を追うように死んだため作った墓、または、ここに埋葬した孝徳天皇の女官の鶯式部の墓、もう一説では、元旦に鶯が必ず来て春を告げたことに由来すると言われています。
警察はっとる場所や。
この辺りをサイクリングする時の目印にしていました。
昔、このあたりは一帯が田畑で、小高くなったここだけが目立っていた。
貞享(じょうきょう)3年(1686)在銘の五輪塔が建っていることから墳丘と考えられるが、誰のものかは不明である。
地元では鴬塚とよばれて、鴬にまつわる伝説を残している。
鳥居など周りは、昭和に建て直しされました。
この塚は、戦争時代を焼けずに残りました。
#ATフィールドか#バワースポットか。
1200年前とあるが、昭和31年から、60年たっている。
【鶯塚】(うぐいすつか)大阪市北区天満方面から長柄橋へ向う途中、旧道の脇に【鶯塚】(うぐいすつか)があります。
大きな木を赤い鳥居と玉垣で囲われています。
「稲荷神」も祀られています。
由緒が書かれたパネル板があり。
「鶯塚の由来」についてつぎのように書かれてあります。
この鶯塚は今から千二百年ほど昔、長柄長者の美姫が鶯を飼って人間の様にに可愛がっていた。
ところがこの姫が病の為に死ぬと鶯は深くその死を悲しみ歌を詠み後を追う如く死んでしまった。
長者たちは、このうるわし話しを後世までも伝えようと鶯を姫と一緒に埋葬して鶯塚と名付けたと言われている。
又長柄は千三百十年前人皇台三十六代孝徳天皇の遺跡で中大兄皇子(後、天智天皇)及び中臣の鎌足(藤原氏祖)と共に蘇我氏の専横を退けて、大化の改新を断行された由緒の地で、「摂津名所図絵」によると「孝徳天皇の御陵は南河内の山田村に古来より鶯凌と称へられているので、この鶯塚も天皇に関係の高貴の方の御墓であろう」とある。
又今から二百四十年前の正徳三年夏、河内狭山の藩士で笹本源之介が父の仇加州の浪人羽滝伝太郎を母と共に四年間さがしもとめて遂に長柄長者の配慮により、この鶯塚のほとりで見事仇討ちをとげ狭山藩に帰ってから長者の娘お梅を妻に迎えたと云う、この鶯塚を舞台にした芝居もある。
昔は小丘の上五輪塔の墓があって、その前に「鶯塚」と刻んだ今の石標が立てられ小庵もあって四時薫香が絶えなかったと言う。
住所:大阪府大阪市 北区長柄東2丁目7アクセス:地下鉄谷町線・堺筋線・阪急千里線「天神橋筋六丁目駅」から約900m。
近くに【淀川天神社】(よどがわてんじんしゃ)があります。
名前 |
鶯塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
いつも通るのですが分からないです。