世界に先駆けてお米の先物取引が行われていたことを示...
世界に先駆けて先物取引き市場を確立した米取引場の記念碑です。
ひっそりとしていますが確かな歴史を感じるモニュメント。
たまたま通りがかった所に米粒のモニュメントが、、、歴史を知ることができて良かったです。
江戸時代 年貢米を入札した米仲買人に米切手(証券)を発行した。
米切手を売買して米相場を動かし先物取引の魁になった場所だそうです。
◽アクセス①京阪中之島線/大江橋駅:徒歩5分②Ⓜ️四ツ橋線/肥後橋駅北改札④:徒歩7分③Ⓜ️御堂筋線/淀屋橋駅北改札⑥:徒歩8分④JR東西線/北新地駅:徒歩5分◽「上方落語の舞台の地」巡り▪️「胴斬り」:常安橋▪️「胴とり」:土佐堀橋、越中橋▪️「次の御用日」:蛸の松▪️「淀の鯉」:佐賀藩蔵屋敷跡▪️「米揚げ笊」 「冬の遊び」 「住吉駕籠」:堂島米市場跡碑▪️「米揚げ笊」:栴檀の木橋▪️大江橋「池田の猪買い」「牛ほめ」「菊江仏壇」▪️「鷺取り」:玉江橋▪️「雁風呂」:肥後橋▪️「天神橋」:天神橋▪️「雁風呂」「木津勘助」:淀屋の屋敷跡▪️「千両蜜柑」:天満青物市場碑▪️「三十石」「胴乱の幸助」:八軒家浜船着場跡▪️「熊野詣」:熊野街道起点の碑◽概要▪️堂島川にかかる中之島ガーデンブリッジの北詰に、先物取引発祥の地として「堂島米市場跡」 の記念碑が建てられています。
▪️稲穂を持った童子像の下には図案化された“濱”の文字が。
▪️天満青物市場や堂島米市場等が川沿いに広く点在し、すべての物資と富の集積地として、縦横に走る水運が大坂経済に大きな役割を果たしていました。
大きな米粒のモニュメントが何ともシュール。
堂島新地が開発された後、1697年に中之島の米市が堂島に移され、以来、日本の米相場がここで決定されていました。
中之島ガーデンブリッジに記念碑があります。
周辺には各藩の蔵屋敷がかっては立ち並び、大阪が経済の中心地として栄えていました。
しかし1869年に石建米売買が禁止され、さらに1871年の明治政府による廃藩置県で蔵屋敷は廃止、国有化された後、民間に払い下げとなり、現在に通じる新しい事業所が一帯に進出、今度は大阪の文明開花、近代化をリードしました。
昔は活気があったんだろうな〜!
ガーデンブリッジの北詰め階段を降りた左右にあるモニュメント。
大きな米と子どもの彫刻がそれぞれあります。
大きな米のモニュメントの銘板には、江戸時代、諸藩が年貢として集めた米の多くは、大坂をはじめとする大都市へと運ばれた。
諸藩は、中之島周辺の蔵屋敷に納めた年貢米を入札制によって米仲買人に売却し、落札者には米切手という1枚当たり10石の米との交換を約束した証券を発行した。
この米切手には、未着米や将来の収穫米も含まれ、これらが盛んに売買されるようになった。
享保15年(1730)、江戸幕府は堂島で行われる正米商い(米切手を売買する現物市場)と帳合米商い(米の代表取引銘柄を帳面上で売買する先物市場)を公認し、堂島米市場と呼ばれる公的市場が成立する。
近代取引所に通じる会員制度、清算機能などが整えられた堂島米市場は、わが国における取引所の起源とされるとともに、世界における組織的な先物取引所の先駆けとして広く知られている。
堂島米市場で形成された米価は、飛脚や旗振り通信などによって江戸や地方の主要都市まで伝えられ、各地の米相場の基準となった。
ここで培われた取引制度や慣行の多くは、明治以降の商品・証券・金融先物取引所に受け継がれた。
年表17世紀前半:淀屋の店先(現在の淀屋橋南詰)で米市始まる17世紀後半:堀川や堂島、中之島の開発が進み、諸藩は蔵屋敷を建設・整備し、米切手発行による年貢米の販売体制を整える元禄10年(1697)頃:淀屋米市、ここ堂島に移転享保15年(1730):米将軍と呼ばれる江戸幕府第8代将軍徳川吉宗、米価引き立てのため、堂島米市場を公認文化8年(1811):堂島米市場、最盛期を迎える(発行米切手の市場残高が356万俵余を記録)明治2年(1869):明治政府、米価騰貴の原因として堂島米市場における取引を禁止明治4年(1871):米取引の活性化のため、堂島米会所として再興、その後、堂島米油相庭会所、大阪堂島米商会所、大阪堂島米穀取引所と改組昭和14年(1939):米穀配給統制法により大阪堂島米穀取引所廃止モニュメント:”一粒の光”建築家、安藤忠雄建立:日本取引所グループ大阪取引所、大阪堂島商品取引所、東京商品取引所、日本証券業協会、大同生命保険、ダイビル撰文:宮本又郎、高槻泰郎特別協力:橋爪紳也施工:西松建設また、子どもの彫刻は、稲に遊ぶ子供堂島米市場、その繁栄の跡を記念し昭和30年(1955)に寄贈される。
稲を持つ二人の子供は、堂島と米相場、天地自然の理趣、陰陽の融合、米取引上の慣習を表す。
(「濱」大阪堂島米市場跡建碑會より)寄贈:大阪堂島米市場跡建碑會制作:横江嘉純、昭和28年(1953)と記してあります。
世界に先駆けて先物取引が行われた場所です。
写真にあるように、お米の像が置かれています。
近世の商都大阪を偲ばせる数少ない跡の一つです。
ここで、かつて米の現物取引や先物取引が行われ、全国の米価を決定させる市が開かれていたことを想像してみて下さい。
中之島ガーデンブリッジの北側にある堂島米市場跡と米粒の形をしたオブジェ。
オブジェは安藤忠雄の作品らしいが、建物じゃないから安藤忠雄でも安心して見ていられる。
世界初の先物市場跡。
モニュメントだけがあるのではなく、もう少し意義深い場所として保存して頂きたいですね。
江戸時代この地で米相場が開かれていた。
世界初の信用取引場跡。
経済の教科書に掲載されている。
工事中でした。
リニューアル?新堂島米市場跡碑は米粒の形をしているようです。
除幕式は2018年10月23日?☆リューアル記念碑完成しました。
説明も詳しく解説されています。
英文解説もあります。
モニュメントは建築家、安藤忠雄デザイン「一粒の光」
中之島ガーデンブリッジの北側に堂島米市場跡と安藤忠雄氏の「一粒の光」という作品がある。
江戸期この辺りは米市場だった。
広重が素晴らしき絵を残している。
それを見れば今にも当時の現場、喧騒、活気が蘇りそうである。
藩邸が立ち並んだ中之島界隈はどこを歩いても歴史のかけらが残っている。
大坂は天下の台所と言われていました。
米市場はその象徴です。
淀屋橋という橋の由来となった豪商『淀屋』などが活躍しました。
可愛らしい2人の子供の像が建っています。
江戸時代米の取引きは、当初蔵屋敷の連なる土佐堀川沿岸の、北浜の路上で行われていた。
これを開いたのが豪商淀屋の2代目个庵(こあん)といわれ、そのため「淀屋の米市」と称されていた。
その後、交通妨害になることや、当時開発されたばかりの堂島新地の振興もあって、当地に移された(元禄 10年、1697)。
この移転は、淀屋の幕府によるとりつぶしの関係も考えられるが、いずれにしても公認のものではなく、米商人の自主的取引きであった。
その後江戸商人による公認の市場開設などあったが、享保(きょうほう)15年(1730)公認の帳合米市場が発足し、ここでの相場が全国の基準となった。
元禄10(1697)年から昭和14(1939)年まで米市があったそうで、この場所が米騒動の中心だったようです。
名前 |
堂島米市場の跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
06-6208-9166 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.9 |
昔この地域で、世界に先駆けてお米の先物取引が行われていたことを示す可愛らしいモニュメントです。
もっと詳しく知りたい方は、ここから歩いてすぐの大同生命ビルに行くと展示が見られますよ(2023年2月現在)。