小さな公園の中に建っています。
この場所は、東海通新幹線の高架下の道路沿い、大阪シティバスの淡路四丁目四丁目バス停のすぐ近く、西淡路五丁目バス停からも徒歩で数分のところにあります。
阪急淡路駅からでも、徒歩で10分程度あれば到着すると思います。
ここは小さな遊歩道のようになっていて、駐車場などはないので、公共交通機関を利用して訪れることになります。
この顕彰碑にある中島大水道とは、碑文にもあるように、淀川と神崎川に挟まれて、水捌けの悪かった現在の東淀川区・淀川区・西淀川区一帯の排水を目的として、周辺の地区の住民によって、50日間で完全したと伝えられています。
中島大水道のは、東海通新幹線や、国道176号十三バイパスの建設に伴い、埋め立てられて消滅してしまいましたが、2010年前後までは在来線の新大阪駅の線路に短い鉄橋が残っていましたが、おおさか東線開業に向けた新大阪駅改良工事で撤去されました。
下流域の大野川跡地には、JR東海通線に鉄橋があったり、遊歩道として残っています。
既にどなたかが歴史的なことは書いておられるので私は歴史には触れません。
ひっそりと静かに残る記念碑のある場所。
ホント人がいない。
公園のように子供達が遊べるような広さもないし。
延宝(えんぽう)6年(1678)、当地の滞留水を海に流す目的で、「百姓自晋請」として開いた用排水路である。
公費補助を嘆願したが認められず、非常な苦心の末、ここから福村吐出口樋まで9.5km、幅19mの水路を、わずか50日間ほどで完成させた。
江戸時代前期(延宝6年、1678)に、摂津国西成郡の北中島地域(東淀川区・淀川区・西淀川区)に属する22か村の農民らが、悪水と滞留水を海に流すために、自力で開いた排水路である。
このあたりは、淀川・神崎川・中津川に囲まれた低湿地で、古代から水害に悩まされ、悪水抜きの大水道はぜひとも必要であった。
村々は団結して代表者を江戸に送り、幕府負担による「公儀普請」の嘆願を重ねたが、逆に「百姓普請」を命ぜられ、資金約2,000両のほとんどを地元で負担して、この付近から此花区伝法5までの全長約9.5km、幅平均22mの大水路を、約50日で完成させた。
そのため主唱者3名が自害したという義人伝説さえ生まれた。
この水路は明治32年の淀川改修まで立派に機能し、長く住民に恩恵を与えたが、現在は市街地化に伴い道路などに形を変えている。
北中島地区の22カ村の庄屋や農民が幕府に水道開削の願いを繰り返したが、百姓自前の普請として許可。
資金二千両を募って延宝6年(1678)水路を貫通させた。
名前 |
中島大水道顕彰碑 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
〒533-0031 大阪府大阪市東淀川区西淡路5丁目1−60 |
評価 |
3.0 |
小さな公園の中に建っています。
犬の散歩の人以外には、人気(ひとけ)はありません。