史跡では無く記念碑的な構造物です。
昔、、この辺りに二つ井戸おこしがありました。
二ツ井戸の旧碑が国立文楽座の前に復元されているのは知りませんでした。
昔から大阪には二ツ井戸の地名があり知ってましたが、戦災で無くなったのを再建されたとか。
✌️☺️☺️
史跡では無く記念碑的な構造物です。
このレプリカ?は、別の場所 二ツ井戸町(現在の道頓堀1丁目東)から移設された物です。
(現在の場所より直線距離で北に 約200mの場所に在りました。
2019年6月現在 モータープールアイワの北側)もともと「つのせ」と言う 粟おこしの会社の店先に置かれていた石の飾り物です。
「本来の二ツ井戸」は別の場所だそうです。
つのせ社の移転に伴い現在の場所に設置されたようです。
詳しくは、つのせのウエブサイト「つのせと二ッ井戸のあゆみ」にも記載されています。
色々移転してきたとのことですが, ここ文楽劇場前が, 値打ちの分かる人の目に触れる最善の地であろうとの配慮でしょうか。
🤔 2016.11.27
二ツ井戸は当初、道頓堀の東、堀止めに江戸時代1634年頃からありました。
二つ並んで掘られた井戸は珍しく、寛政8年(1794年)の『摂津名所図絵』には名所のひとつに選ばれ、『清泉にして此辺民家の用水とす』と記載されています。
当時この辺は高津五右衛門町と呼ばれ銭座があり、寛永通宝など幾多の貨幣が二ツ井戸の水で鋳造されました。
井戸が明治時代の都市計画の道路拡張で撤去されるのを惜しんだ、西側(現在の道頓堀1丁目東3-23)にあった粟おこし屋『津の清(つのせ)』の当主が払い下げを受け店頭に移設しました。
その後井戸に因んで、町名も二ツ井戸町へと改名されました。
その井戸は大阪を愛した作家織田作之助の代表作『夫婦善哉』にもたびたび登場します。
移設時掘掘された井戸の水は大正12年、少し南方の日本橋三丁目に松坂屋大阪支店が建築されて以来水が出なくなってしまいました。
先の第二次世界大戦時、昭和20年の空襲の戦火で御影石の井戸枠がぼろぼろになり修復不可能になりました。
その後、昭和27年に西方の清津橋のたもと(江戸時代に店があった場所)へ移転した『津の清』の店頭に復元されました。
三度も場所を変えた二ツ井戸は、その後も町の人に愛されながらも平成12年に姿を消しました。
この度、銘板と標柱が見つかったのを期に、由緒ある井戸を後世に伝えようと、この地に再移築し復元いたしました。
歴史を感じる。
江戸時代の大阪の名所。
古地図にも二ツ井戸の名称があり、この井戸を使った銘菓があったという。
夜になると何か出てきそう。
井戸は1本だけ掘られるもの。
そう思っていましたが、ここでは2本並んで掘られたとある。
文楽劇場真ん前です。
名前 |
二ッ井戸跡碑 |
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ジャンル |
|
住所 |
〒542-0073 大阪府大阪市中央区日本橋1丁目12−10 |
関連サイト | |
評価 |
3.4 |
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◽アクセス①Ⓜ️堺筋線/日本橋駅中北②出口:徒歩5分②Ⓜ️千日前線/日本橋駅東⑦出口:徒歩5分③近鉄大阪線(奈良線)/日本橋駅:徒歩7分(国立文楽劇場前)◽「上方落語の舞台の地」巡り▪️井戸の茶碗◽落語散策コース▪️鉄眼寺:「木津の勘助」 「土橋萬歳」▪️難波御蔵 新川跡碑:「土橋萬歳」▪️大乗坊:「恵比寿小判」 「逆い夢」▪️旧跡二ツ井戸:「井戸の茶碗」◽「二ツ井戸」 経緯▪️1634年頃、道頓堀の東に存在しました。
▪️1889年、道路拡張による撤去を惜しんだ粟おこし屋さんの 「津の清」 が払い下げを受け店頭に移築します。
▪️大阪大空襲により、井戸枠などが壊滅的なダメージを受けます。
▪️1952年、「津の清」が移転した店頭に再度復元し、2000年まで存在しました。
▪️その後、銘板と標柱が発見されたのを機に、2012年、再移築されます。