登美毘古)―◆「登美」は邑名で「長髄」は屋号(地形...
この周辺は新興住宅地。
そんな中にひっそりと古代ロマンを感じさせる碑があるときいて行ってみる。
なぜ新興住宅地に??と思ってしまうのだが・・・行くと分かります。
ここは昔ながらの場所。
狭い生活道があり、田んぼがあります。
地域の方々がしっかりと守ってきた場所だったんですね。
長髄彦がここを本拠とし、一旦は神武東征を阻止した場所だと思うとなかなか面白い。
開発されまくっている周りをみながら、昔はどうだったんだろうかと考えるのもまた面白いところです。
有名どころなのに石碑のみ。
なんだか寂しかった。
◆―登美能那賀須泥毘古(別名、登美毘古)―◆「登美」は邑名で「長髄」は屋号(地形)を表す。
昔は急な曲がり角を「肘曲り」と称するなど、径路の形状を人体の四肢に例えた。
「長脛」も道幅が徐々に狭くなっていく細長い道路を表したと思われる。
❶奈良県田原本町の富都神社の祭神に登美屋彦命・登美屋比売命があり、この両神は兄妹で登美屋比売は御炊屋姫の別名と伝わる事から登美屋彦命は長脛彦とされる。
◆―長脛彦の興味深い一説があり要約します―◆『事代主命の弟の建御名方神を 御名方富命,建御名方富命と表記するが、富は登美に通じ登美邑を示すと考えられる。
故に建御名方富とは長脛彦その人と思われる。
奈良市石木町登弥神社の祭神に登美建速日命があり、これも長脛彦だと推定されるが、同じ呼称が中田憲信編の諸系譜・長公系譜にある「事代主命―天八現津彦命(別名、観松比古命)―建日別命」この建日別命が長脛彦とするならば、事代主命と建御名方富命の関係から天八現津彦命と建日別命は親子ではなく同一人物であり、長脛彦の実名は観松比古だったと判る。
』
池のほとりに石碑がある。
妹(登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ))を饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。
その後、神武天皇を孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、その後、饒速日命に殺される。
名前 |
長髄彦本拠の碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
おいしい(原文)gon đệt