幕府の淀川制圧のため、高浜と対岸の楠葉に砲台を建設...
サイクリング途中に立寄り。
よくわからない。
官軍側について対岸の楠葉砲台を追い払いました。
石碑あり。
川の土手に立つと樟葉台場辺りが間近に見える。
お堂が工事中です。
鳥羽伏見の戦いの歴史的な場所江戸時代の街道の道しるべ。
慶応2年(1866年)10月、幕府の淀川制圧のため、高浜と対岸の楠葉に砲台を建設した。
同4年正月3日鳥羽伏見の戦いに敗れた幕軍は、八幡、橋本、楠葉に集結し、薩長軍を迎撃しようとしていた。
当時幕命で山崎・高浜が藤堂藩、楠葉は酒井藩が守備していた。
5日藤堂藩は勅使四条隆平に説得され帰順に決した。
翌6日朝、対岸の幕軍に向かって、高浜砲台の新式四斤山砲は火を噴いた。
楠葉砲台も応戦し、夕刻まで砲戦は続いたが、幕軍は虚をつかれ、撤退していった。
最後には船を漕ぎ出して、小銃で銃撃したそうです。
島本町教育委員会「史跡をたずねて」より実際の高浜砲台は高浜砲台跡の場所でなく、淀川河川敷にあり、高さ八尺(約2.4m)、周囲100間(約180m)の規模であったされています。
現在は、淀川改修のためこわされ、ゴルフ場になりましたが、そのゴルフ場も無くなり、今はヨシの群生地となってます。
河川敷に台場の雰囲気はまったくありませんが、壮観な眺めになっています。
砲台跡。
石碑と説明板がありました。
実際にはこの場所ではなく別の場所に砲台があったらしい。
淀川の堤防沿いで国道171号線から少し入った場所にあります。
高槻市梶原にあった梶原台場とともに藤堂藩が守備した砲台場の跡です。
旗色不鮮明であった藤堂藩が新政府軍に従うことを決定、旧幕府軍の拠る対岸の楠葉台場に砲撃を加えたことにより旧幕府軍は退却を余儀なくされました。
実際には砲台場は碑のある辺りではなく、河川敷内にあったそうです。
碑は建っていますが、大ががりな調査は実施されて、期待して訪問するとガッカリです。
今後の、調査を期待します。
高槻市梶原にあった梶原台場とともに藤堂藩が守備した砲台場の跡です。
旗色不鮮明であった藤堂藩が新政府軍に従うことを決定、旧幕府軍の拠る対岸の楠葉台場に砲撃を加えたことにより旧幕府軍は退却を余儀なくされました。
実際には砲台場は碑のある辺りではなく、河川敷内にあったそうです。
名前 |
高浜砲台跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
歴史的場所「碑」がたってるだけと思います、建物は集会場になっています。
淀川堤近くですが雄鳥の鳴き声がなんか楽しい。