ここが東海道であったという事。
田中休愚は、本陣、名主、問屋の三役を兼務していて、ここは本陣の跡地です。
本陣は主に大名、公家、旗本などが宿泊する施設をいう。
田中本陣の歴史が書かれた説明板があります。
「本陣」とは、主に大名や公家、旗本、高僧などを対象とした江戸時代の宿泊施設のこと。
田中本陣は寛永6年(1629)に川崎宿で初めて設けられた本陣で、門構えや玄関があり延べ231坪(762㎡)の堂々たる建物であった。
川崎宿に三軒あった本陣のうち、江戸側にあったことから「下本陣」と呼ばれた。
元和9年(1623)の川崎宿の設立当初は旅籠も本陣も存在していなかった。
寛永5年(1628)、相州玉縄(大船市)の大名松平正綱が江戸へ向かう途中、悪天候のため川崎宿に泊まろうとしたところ、宿泊施設が整っていないためやむなく妙遠寺に泊まったという。
正綱が川崎宿の不備を幕府に進言した結果、幕府より100両の助成金が交付され、翌年旅籠12軒と田中家による仮本陣(参勤交代制度が整う寛永11年に正式に本陣となる)が開設された。
東海道・川崎宿の本陣、中心部となります。
田中家の有名人は田中休愚かな?
ここが東海道であったという事。
説明板が二つ建っており、それぞれ下のように書かれている。
<田中本陣と休愚>田中(兵庫)本陣は、寛永五年(1628)に設けられた宿内最古の本陣である。
ここ出身の休愚は宿の財政再建に尽力した人物で、当時の農政を論じた「民間省要」の著者としても知られる。
<田中本陣(下の本陣)と田中休愚> 川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、寛永五年(1628)に設置されている。
田中本陣はその場所が最も東、すなわち江戸に近いため「下の本陣」ともいわれた。
本陣は大名や幕府の役人、勅使など武士階級専用の宿であった。
その構造は、武士階級を宿泊させるために、当時一般の民家には許されなかった門や玄関構え上段のある書院など、書院造りを取り入れた空間と、本陣の主(宿場の中でも財力があり、信頼のおける名家などが幕府から選ばれた)の一家の生活空間との二つを併せ持っていた。
建物の改造や再建には幕府や諸藩から助成を受け、半官半民的な運営がなされた。
本陣は参勤交代の導入により、多くの大名が街道を旅するようになるとともに栄えたが、 江戸後期には、大名家の財政難や参勤交代の緩和により、衰えも目立った。
安政四年(1857)、アメリカ駐日総領事ハリスが、田中本陣の後輩ぶりを見て、宿を万年屋に変えたことは有名である。
明治元年(1868)、明治天皇の東幸の際、田中本陣で昼食をとり、休憩したとの記録がある。
明治三年(1870)、新政府は天然痘流行を機に各地で種痘を行ったが、 川崎では11月から12月にかけて6回、田中本陣で行う旨の布達が出されている。
宝永元年(1704)、42歳で田中本陣の運営を継いだ田中休愚(兵庫)は、幕府に働きかけ六郷川(多摩川)の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、渡船賃の収益を宿の財政にあて、伝馬役で疲弊していた宿場の経営を立て直した。
さらに商品経済の発展にともなう物価の上昇、流通機構の複雑化、代官の不正や高年貢による農村の荒廃、 幕府財政の逼迫に対し、自己の宿役人としての経験や、するどい観察眼によって幕府を論じた「民間省要」 (みんかんせいよう)を著した。
これによって、享保の改革を進める八代将軍吉宗に認められ、幕府に登用されてその一翼を担い、晩年には代官となったのである。
いつも横を通ります。
名前 |
田中本陣跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.4 |
田中本陣です。
主人である田中休愚は、本陣・名主・問屋の三役を兼務した偉人で、六郷の渡しの船舶の権利を江戸側から川崎側に譲り受けて、宿場の財政を立て直した偉人との事です。
しかし江戸時代末期になると参勤交代の頻度も減り、衰退していったそうです。