出会った亀に水飲み場に案内してもらった。
駐車場が広いです。
京急川崎駅からも近くて便利です。
7月10日に大施餓鬼があります。
曽祖父母のお墓があるので、年に数回お参りにいきます。
隣には宗派を問わない室内のお墓があります。
川崎宿があった頃の飯盛女いわゆる売春を生業にしていた女性たちの供養塔がありますこの付近は今でもソープランド集積地帯でこちらは東海道に面するお寺川崎宿と深いつながりあり。
【川崎の昔話】ある修行僧が真夏に当地を訪れた時、出会った亀に水飲み場に案内してもらった。
この僧が出世して当地を再訪、この亀に出会い、亀への礼としてこの寺を建てた。
本住職が不在の場合が多く、弟子僧侶が対応することがほとんど。
大事なイベントのときに本住職不在なのは、どうかなと?
飯盛女の無縁仏がこの寺にある。
何時もながら落ち着きます。
川崎駅近くにありながら由緒あるお寺に出逢えました♪
素敵な御朱印を頂きました。
境内に入ると駅のそばとは思えない程の、落ち着いた雰囲気でした。
「武州、河崎荘勝福寺」がその前身といわれています。
小田原北条の家臣間宮豊前守信盛が中興し、その法名「瑞龍院雲谷宗三居士」から宗三寺と名付けられました。
境内には間宮豊前守信盛の墓や墓石の頭部中央に「烏八(うはっ)臼(きゅう)」と刻まれた、いまだ解明されていない文字のある墓があるそうです。
サクラ祭りがアリ賑やかでした。
旧東海道川崎宿の古刹(の、あとを継いだと言われるお寺)。
普通のお寺と墓地があるだけだが、その墓地に入って左の一番奥に、宿屋に置かれていた飯盛女(春を売る若い女の子)たちの供養塚がある。
近郷の貧しい家から売られて、病気にかかったり酷使されたりで、多くは長くは生きられなかったのだろう。
合掌。
お寺の説明板があり、下のように書かれていました。
中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、その時代荘内に勝福寺という寺院があり、弘長三年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。
勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後身とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興している。
「江戸名所図会」に本尊釈迦如来は、「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、本尊はひくい肉髯、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紉を結び、大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。
今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。
旧東海道沿いにある由緒正い歴史ある寺院。
瑞龍山宗三寺は鎌倉時代にあった宇多源氏佐々木家の関東における菩提寺だった勝福寺が前身。
佐々木泰綱公の記録等が残る。
その後衰退した所を戦国時代に小田原北条家臣の豊前守 間宮信盛 入道 宗三によって末吉村の寶泉寺第四世僧自山を招いて中興開山されて寺名は宗三寺に改められた。
戦国武将、間宮信盛公の御廟所が在る寺院だが、間宮信盛公の墓石には子孫が追善供養をした際に誤って間宮信盛公の曾孫に当たる間宮康信公の名前が刻まされている。
誤って開山と彫られている間宮康信公も又、武田信玄の軍勢を駿東郡戦線や三増峠で痛撃した猛将として有名。
しかし、当山の中興開基は間宮信盛公である。
間宮信盛公の間宮家は戦国時代の北條家臣で相模十四騎筆頭に挙げられた家。
間宮家は近江国の宇多源氏佐々木家の分家で、初代鎌倉公方の足利基氏公の家臣を経て、鎌倉府の消滅後は伊勢盛時入道宗瑞(北條早雲)公に使えた一族。
伊勢盛時公が韮山城主と成った伊豆入国の際に従い、扇谷上杉家との権現山合戦での間宮彦四郎の活躍し世に武名を知らしめた。
間宮家は陸戦以外にも宮司家出身、水軍、築城集団、鷹匠等の特異な技能を持つ集団であり、その経歴と合戦での実績から玉縄北條家の付家老と成った。
玉縄北條家の地黄八幡こと北條綱成公~北條氏繁公~北條氏勝公の三代に与力した間宮康俊公と間宮康信公、北條氏照公に与力した間宮綱信公、北條氏康公の直臣の間宮信繁公等は特に鶴岡八幡宮の再建を始めとした寺社の再建、合戦や諜報、外交、築城で功績を残した。
豊臣秀吉の小田原攻めの際に、間宮康俊は城将の松田康長と共に箱根山中の山中城で手勢200ばかりを率いて籠城、秀吉の先鋒豊臣秀次率いる26000の大軍を迎撃し秀吉配下の大名、一柳直末を討ち取る等活躍し玉砕した。
この間宮康俊公の活躍と、北條家の外交官を務めた間宮綱信公が徳川家康公と直接面識が有った事により、北條家の改易蟄居後は間宮一族の多くが徳川家康公の直参旗本に取り立てられた。
特に間宮康俊公の娘の於久は徳川家康公の側室となり一女を産み、嫡孫の間宮直元公は本牧奉行・但馬奉行・佐渡奉行に取り立てられた。
間宮直元公は大坂城の総堀を埋めたて城を無力化する作戦を家康公に献策した人物。
2017/4/8拝受 准秩父三十四観音霊場第20番札所。
境内の墓所には、川崎宿として栄えた頃に、宿で働いた、飯盛り女を供養する石造物がありました。
有り難く准秩父三十四観音霊場第20番札所の御朱印(如意輪観世音)を頂きました!
瑞龍山宗三寺は鎌倉時代にあった宇多源氏佐々木家の関東における菩提寺だった勝福寺が前身。
佐々木泰綱公の記録等が残る。
その後衰退した所を戦国時代に小田原北条家臣の豊前守 間宮信盛 入道 宗三によって末吉村の寶泉寺第四世僧自山を招いて中興開山されて寺名は宗三寺に改められた。
戦国武将、間宮信盛公の御廟所が在る寺院だが、間宮信盛公の墓石には子孫が追善供養をした際に誤って間宮信盛公の曾孫に当たる間宮康信公の名前が刻まされている。
誤って開山と彫られている間宮康信公も又、武田信玄の軍勢を駿東郡戦線や三増峠で痛撃した猛将として有名。
しかし、当山の中興開基は間宮信盛公である。
間宮信盛公の間宮家は戦国時代の北條家臣で相模十四騎筆頭に挙げられた家。
間宮家は近江国の宇多源氏佐々木家の分家で、初代鎌倉公方の足利基氏公の家臣を経て、鎌倉府の消滅後は伊勢盛時入道宗瑞(北條早雲)公に使えた一族。
伊勢盛時公が韮山城主と成った伊豆入国の際に従い、扇谷上杉家との権現山合戦での間宮彦四郎の活躍し世に武名を知らしめた。
間宮家は陸戦以外にも宮司家出身、水軍、築城集団、鷹匠等の特異な技能を持つ集団であり、その経歴と合戦での実績から玉縄北條家の付家老と成った。
玉縄北條家の地黄八幡こと北條綱成公~北條氏繁公~北條氏勝公の三代に与力した間宮康俊公と間宮康信公、北條氏照公に与力した間宮綱信公、北條氏康公の直臣の間宮信繁公等は特に鶴岡八幡宮の再建を始めとした寺社の再建、合戦や諜報、外交、築城で功績を残した。
豊臣秀吉の小田原攻めの際に、間宮康俊は城将の松田康長と共に箱根山中の山中城で手勢200ばかりを率いて籠城、秀吉の先鋒豊臣秀次率いる26000の大軍を迎撃し秀吉配下の大名、一柳直末を討ち取る等活躍し玉砕した。
この間宮康俊公の活躍と、北條家の外交官を務めた間宮綱信公が徳川家康公と直接面識が有った事により、北條家の改易蟄居後は間宮一族の多くが徳川家康公の直参旗本に取り立てられた。
特に間宮康俊公の娘の於久は徳川家康公の側室となり一女を産み、嫡孫の間宮直元公は本牧奉行・但馬奉行・佐渡奉行に取り立てられた。
間宮直元公は大坂城の総堀を埋めたて城を無力化する作戦を家康公に献策した人物。
参拝しています。
曹洞宗准秩父三十四観音第20番霊場平成26年11月15日参拝。
名前 |
宗三寺 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
044-222-5051 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.5 |
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柔道古賀稔彦先生のお墓参りに来ました。
私の永遠の憧れです。
感無量です。
お寺も綺麗で掃除が行き届いた印象です。