粟原寺(おうはらてら)跡中臣朝臣大嶋が持統天皇の亡...
車で行くなら道が狭いので気をつけて。
花山塚古墳を訪ねその帰り国道166を桜井方面に少し行き左に入ります。
入って右に登る狭い道が在りますがぎりぎり自動車で入りました。
ただ直近まで行かづ手前の空いた場所に車は入れました。
以下「桜井市観光協会H.P.,より引用礎石だけが残る廃寺ですが、江戸中期、談山妙楽寺(現在の談山神社)の宝庫から発見された粟原寺、三重塔の露盤の伏鉢(相輪の一部)に刻まれている銘文に中臣朝臣大嶋(なかとみのあそんおおしま)が天武天皇と持統天皇の息子・草壁皇子をしのび創立を誓願したが果たさず没し、比売朝臣額田(ひめのあそんぬかた)が二十二年を要しこの地に伽藍を建て丈六釈迦仏像を安置し三重塔を建立し、草壁皇子、発願者の大嶋などの冥福を祈ったと印刻されています。
比売朝臣額田は、かって天武の妻であった万葉歌人・額田王であり、大嶋は額田王の晩年の夫ではなかったのではないかという説もあります。
建立年代、造営過程など寺の由緒がわかる貴重な文化財で明治35年(1902年)国宝に指定され、寺跡も国史跡になっています。
ーーーー当地の粟原区に、痛みがひどく年月を感じさせるただの板碑(案内板)に書かれた文章がありました。
読んでみるとこの文章を書かれたれ、この地を愛し、この歌に惹かれた篤額の人「金本朝一氏」の強い感情移入を感じ板碑から引用させていただきました。
以下板碑より「当地には「有名イな万葉の女流・額田王の終焉の地だ」という伝承が残されています。
さすれば国宝粟原寺三重塔路盤の銘文にある比○朝臣田が、その人であるかも知れません。
ここ事は史的考証詩的確信です。
数奇な運命を辿った彼女は、天武崩壊後の複雑な立場の拠り処を、この地に求めたものと想われます。
…昭和六十三年十月二十一 粟原区。
粟原寺(おうはらてら)跡中臣朝臣大嶋が持統天皇の亡き草壁皇太子のために発願した寺との銘文が残されている。
中臣朝臣大嶋は伊勢神宮内宮の初代祭主であった人であり、藤原家、つまり中臣家の鎌足から不比等への大切な橋渡をした重要な人物であり、古事記にある祝詞の確立に大きく関わった人物でもある。
その残された銘文に記されている夫の発願を受けて21年の歳月をかけてこの寺を建てた比売朝臣額田は、晩年の額田王であるとの説がある。
つまり、額田王の最後の夫が中臣朝臣大嶋である可能性があるとのこと。
梅原猛の作品「塔」による。
粟原(おばら)のバス停から徒歩15分ほどです。
案内表示があるので迷うことはないでしょう。
車道は上までありますが、1台通るのがやっと。
駐車場はありません。
上で転回はできますが。
バスは日に5本ほどしかないのでここで2時間何するかって話ですね。
バイクツーリングの途中で寄るならいいかも。
碑には「神武天皇遙拝所」とあります。
凄く静か。
観光地というほどではなくても写真撮るのに良かったです。
大和朝倉駅からかなり歩いたけど乗り鉄、撮り鉄におすすめしたいです。
静かな山間にたたずむ寂れた寺跡で周りには何も無い🎵
名前 |
粟原寺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
興味のない人には行くのも見るのも辛いかも。