住宅地の中に忽然とあらわれます。
上之宮遺跡(聖徳太子上宮伝承地) / / .
地元生まれです。
私が子供の頃は、この辺りの小高い何もない高台の場所に鳥居がぽつんとあって、「うえのみや」と呼ばれていました。
聖徳太子がお若い時に住んでおられたところと伝わります。
整備されたのはごく最近です。
太子はすぐ近くの桜井南小学校の横を通って、飛鳥の宮に通勤されていたと母の頃は授業でも説明されていました。
途中、馬を降りてお休みになった石が当時は残っていました。
この辺りは群集墳も昔はたくさんあり、全部潰されて新興住宅地になってしまいました。
私の母の頃は、古墳に子供らが入って遊んで、骨やー!と逃げて来たり、直刀(古墳時代)を見つけて振り回して遊んで、夕方になったら飽きてぽいっとほかして家に帰る、誰も気にしないというような扱いだったそうです、文化財といわれ大切に守られるようになったのは食べるに困らないほど戦後豊かになってから、せいぜい昭和40年とかです。
消滅した、削られた古墳がたくさんあるのもそういうわけです。
触ると祟る(高松塚古墳)とか天皇陵と伝承の有るところのみ地元民に守られ残りました、とはいえ大体鎌倉期には盗掘済みのところがほとんどですが。
よって、文化財愛護の概念はわりと近年のものです。
勿体ないことをしましたね。
あと、磐余の池の伝承地も地元のおばあさんから聞いたとか。
「この池も歴史のある立派な池らしいけどなあ。
今はこんなんなってしもて…」と、昭和初期まで、葦のような草が生えた小さな水たまりがまだ僅かに残っていたそうです。
基本、桜井の史跡は石以外何もないです。
京都と違い、古すぎてほぼ残っていません。
宮が燃えても崩れても残るは石くらいのものです。
一方で自然崇拝の原始信仰があるわが国にとって、由来のある石はまさに信仰の象徴で欠かせぬ大切なものでもあります。
歴史そのものです。
今となっては華やかさはない田舎ですが、日本の国家の曙の頃、都の有った伝承地、聖徳太子の当時と変わらぬ空気、変わらぬ緑を楽しみ、ほっこりした古都の空気感を是非楽しんで下さい。
こんな住宅地にそんな重要な場所があったとは。
その意外性にまず感動できます🎵遺跡としては、やはり当時の人が水を如何にコントロールし大切に扱っていたかが分かる遺跡ですね。
小さいけど行く価値ありです。
それにしてもここに本当に聖徳太子の上宮が? うーん、疑問です。
この遺跡の重要性は、聖徳太子が難波に建立された、四天王寺の地下に設営された、地下水の水路のモデルとして想定されることです。
四天王寺では、地下水は、亀井水という、世界に例のない(飛鳥と二例のみ)亀形水盤に導かれ、1400年間聖徳太子信仰の聖地として、歌枕として親しまれてきました。
水信仰をベースとした、最初期の仏教の理解に欠かせない、資料です。
この遺跡のすぐ上には、土舞台といわれる、舞楽の稽古場とつたわる広場があります。
四天王寺で初演され、天王寺舞楽として伝承してきた、日本芸能の原点の場所のひとつです。
『日本書紀』には磐余池のほとりに用明天皇の磐余池辺雙槻宮があり、その南隣に聖徳太子の上宮があったとされている。
2011年、磐余池の堤と隣接する宮殿址とみられる6世紀の遺構が発見された。
この宮殿址が磐余池辺雙槻宮だと推定されることから、この上宮遺跡は聖徳太子の住居跡ではなく阿部氏の邸宅跡と思われる。
住宅地の間で、あたかも忘れられたかのような場所でした。
建物も無く池の跡のみが残っている。
此処が本当に太子が政治を行った場所なのか信じられない気持ちです!
天皇陵参拝の途中に寄りました。
聖徳太子の上宮の可能性も指摘されています。
これに対し上宮ではないとの異論が出され、保存されず遺跡公園として残されています。
住宅地の中に忽然とあらわれます。
一見、住宅と住宅に挟まれた単なる緑地に見えます。
かつて聖徳太子が斑鳩宮に移る前に住んでいた上宮ではないかと言われています。
周囲100m四方に四面庇建物と掘建柱建物群が柱柵に囲まれてあった。
現在は住宅や学校が建設されていて、うまく整備すれば飛鳥の伝板葺宮のような第一級の観光資源となりうると考えればかえすがえすもったいない話である。
名前 |
上之宮遺跡(聖徳太子上宮伝承地) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0744-42-9111 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.7 |
写真で見たらかなり広い印象でしたが、現地に着いて思わず「嘘でしょ!」って言ってしまうくらい狭い場所でした。