山あいに道を抜けると突然すがたを表すロケーションが...
山あいに道を抜けると突然すがたを表すロケーションが素晴らしい。
2019.12.23訪問 全長約150メートル、後円部直径約102メートル、前方部幅約88メートルの前方後円墳で、後円部三段、前方二段の段築が認められる、五世紀後葉の築造とみられる。
全周を巡る幅15メートル程度の広い周濠をもつが、南部の前方部コーナー付近では先行して存在した大形の円墳のために周濠が歪められている。
後円部中央の主体部には長持形石棺が収められていたと伝えられています。
「畝傍の道」巻一の五の二掖上鑵子塚古墳(わきがみかんすづかこふん)「五世紀」「葺石」「埴輪列」、これらの条件を満たすものとして大阪府堺市の『大仙陵古墳』が思い当たります。
アップしてる画像の最後尾は大仙陵古墳の完成時のジオラマです。
御所の畑仕事をしている老夫婦に聞いた話ですが、この辺り一帯は山といってもただの山ではなく御所市から五条北に至るまでの山はおおよそ1000を超す古墳群の山であるとのことでした。
考古学的には800と記録されているけれど実際はもう少し多いと、定年で畑仕事されている元社会科の教諭がそうおっしゃているらしい、と力説。
この丘を西に向かい峠を越えるとすぐに右折して考案天皇 玉手丘上陵へ向かいます。
まず、孝安天皇社、そして金毘羅宮へ。
掖上鑵子塚古墳(わきがみかんすづかこふん)墳丘長149mの前方後円墳、築造時期は5世紀後半と推定。
外見上はただの小山にしか見えない。
被葬者については諸説あり、江戸時代には「武内宿禰の墓」「日本武尊白鳥陵」とする記載があり、また雄略天皇に滅ぼされた葛城本宗家の葛城円・眉輪王らの墓に比定する説もある。
以下、解説板より。
「掖上鑵子塚古墳(御所市柏原字鑵子山)本古墳は、御所市の東部に位置し、国見山から北に伸びる丘陵の谷間に築かれている。
前方部を南西に向けた前方後円墳で、墳丘規模は全長約150m、後円部の径102m、高さ17.5m、前方部の幅88m、高さ12mである。
後円部の径に対し前方部の長さが約二分の一と短く、前方後円墳と帆立貝形古墳との中間的な形態をもつ。
後円部は三段、前方部は二段に築成され、葺石(ふきいし)と埴輪列の存在が確認されている。
墳丘の周囲には幅30mほどの周濠が巡っているが、前方部南側では近接して存在する円墳(径50m)のため輪郭がゆがめられている。
内部主体については未調査であるが、古くに盗掘を受けており、江戸時代の文献には長持型石棺の存在が記されている。
遺物は冠帽形・冑形・水鳥形・家形・太刀形の各種形象埴輪や琴柱形石製品、銙帯金具(かたいかなぐ)などが知られ、これらから築造時期は5世紀後半頃と見られる。
本古墳は、南葛城の地域では南西約2kmに存在する御所市室の宮山古墳につぐ規模を誇り、この地域における有力首長墓といえる。
」
古墳が造られた時期は5世紀後半で、雄略天皇に殺された円の墓とする見方もある。
場所も山間の奥まった場所で、出土品も宮山古墳と共通するものが多い。
この古墳も早く発掘調査されることをお願いします。
名前 |
掖上鑵子塚古墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
美しい前方後円墳です。