天理、三輪、桜井といった町を結ぶ幹線道路として機能...
延喜式神名帳に記載されている大和国添上郡の式内社。
村社。
主祭神:五十狹芹彦命。
この辺り一帯は、先祖の荘園だった。
小さい神社は消滅してしまうことも多いが、天理市に組み込まれていることで難を逃れた。
小さい神社だが、一族にとっては、特別な意味を持つ神社である。
「上つ道/万葉の道」巻二十四の二の八 奈良県天理市楢町楢神社(なら じんじゃ)JRまほろば線「櫟本」駅 徒歩4分大和の古道“上つ道”に面した、創建は崇仁天皇の御代という由緒ある古社です。
全体銅板で覆われた「靖国式」(神明式とも)の鳥居をくぐり神域に入ると、左手に本殿を仰ぎながら全体の静寂を身体で受け止めることができます。
現在の本殿は1862年の『春日大社式年遷宮』の際の社の一部が移されたもので、地元の総代はじめ氏子たちが担いで春日の麓から運んだということです。
また子供の守護神としてだけではなく、子授けのご利益がある神様として古くから地域の方に愛されてきました。
ここより南に徒歩15分くらい、西名阪道を越えたあたりに在原神社があります。
非常に興味深い伝説がありますので是非立ち寄ってみてください。
奈良方面に出向く仕事が多く、仕事帰りですが久しぶりに天理市にある「楢神社(ならじんじゃ)」にお詣りしました。
この楢神社の祭神は五十狹芹彦命(吉備津彦命)、鬼子母神です。
しかし不思議なことに、この神社には八頭の狛犬が社を守ってますが、その中の六頭が鉄柵に囲まれてます。
拝殿前の狛犬の檻は子ども達が上って遊ぶと危険ということで檻に入れられると思ってましたが、実は本殿内に居る四頭の狛犬も檻の中です。
やはり夜ごとに出歩く狛犬を、地域の皆さんが檻に閉じ込め静かにさせてる感じがします。
この神社は「日本書紀」崇神天皇十年の条に出てくる由緒ある古社であり、明治維新から昭和31年までは五十狭芹彦(いさせりひこ)神社とよばれました。
祭神の五十狭芹彦命は孝霊天皇の皇子で、鬼子母神を本地とすることから、子どもの守護神として子授けの神として崇敬されています。
また、この社は元禄年間には約1Km東の宮山(東大寺山)に鎮座してましたが、氏子地域と離れていることから現社地に遷座されたそうです。
「延喜式神名帳」記載の添上郡の奈良豆比古神社の論社とする説もあります。
楢(なら)と言う地名は国、緩やかな傾斜地、宮殿、王などの意味があり、これは緩やかな傾斜地に帝都ができたので、帝都をナラとよんだと伝わります。
神社境内には八代目市川団十郎が奉納した実増井(三枡井・みますい)の井筒があり、井戸水は子どもを授かる霊水とされ親しまれます。
御祭神 五十狭芹彦は、孝霊天皇の第二皇子で岡山では有名な吉備津彦命といわれている神様です。
吉備津彦命って桃太郎さんことです。
このお宮は、桃太郎さんのイメージはないですね。
櫟本に居られます神様櫟本にお住まいの人々互いの温もりに包まれる不思議な空間です。
山之辺の道をハイキングされる方コースから少し反れても行ってみる価値ありです♪
奈良のルーツである楢神社。
長い間、寄りたい寄りたいと思いつつやっと参詣させていただく事が出来ました。
こじんまりとした神社さんです。
が、歴史の空気を感じます。
住宅地の狭道をゆくのでクルマでの方は通行に気を付けて下さい。
天理インターから奈良方面に北上するとき道路にある看板を見て行きました。
小さな神社ですが、これが「なら」のはじまりなんですね。
JR櫟本駅より北北東約500m、奈良上街道(ならかみかいどう)(上街道は、古代から続く上ッ道を基礎として、奈良、天理、三輪、桜井といった町を結ぶ幹線道路として機能していた。
)沿いにある神社。
名前 |
楢神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
周辺のオススメ
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楢(なら)神社創建当時は奈良豆比古(ナラツヒコ)神社。
鬼子母神を合祀して奈良大明神と称される。
御祭神 二柱 五十狭芹彦(イサセリヒコ)孝霊天皇第二皇子で山陽地方では吉備津を平定し吉備津彦と称される。
山陽道平定後、北陸道を平定しその地で崩御された。
その御神徳により奈良豆比古(ならつひこ)命と称される。
楢族の先祖。
鬼子母神(キシボジン)「加賀の国白山の嶺より現れ給いて、御神諱を石川比売命と号し奉る。
…小児を愛し万民撫育し給うこと世の知れる処となり」(当社古版木)御鎮座 神護景雲元年(767年)神殿 檜皮葺一間の春日造文久2年(1861年)春日大社の第五十二次造営に際し払い下げを受ける。
摂社末社 境内摂社末社 八幡神社 祭神 応神天皇恵比須神社 祭神 恵比須命苅郷摂社末社 厳島神社 祭神 市杵島比売命稲荷神社 祭神 寅太丸稲荷大明神由緒 明治の廃仏毀釈のとき、奈良豆比古神社から五十狭芹彦神社と改称させられたが、一般には「楢のお宮さん」として畏敬され敬われてきた。
昭和三十一年に現在の楢神社と改称した。
境内散策鳥居が銅板でできていることと、狛犬が全部檻の中に入れられていたことが特筆。
狛犬がなぜ檻に入れられているのかは不明。
おそらく貴重だからということでしょう。
1848年に八代目団十郎が一族の繁栄を祈願して寄進した井筒。
それぞれに由緒が深く趣がある。
この神社を出て、東に歩いて行くと櫟本高塚公園があって、その入り口に鬼子母神社があり、大きな石が立っている。
多分それが鬼子母神で、「こちらにも参ったか」と言われているような気がした。