移築当時に近い形状を残していて価値が高いとされてい...
「山の辺の道(北)/万葉の道」巻十二の一の十七 奈良市藤原町嶋田神社(しまだじんじゃ)社殿は奈良県指定文化財(昭和53年3月1日指定)本殿は春日移しの社で、移築当時に近い形状を残していて価値が高いとされています。
【万葉歌詠標】(守る会歌詠標No.4)あをによし 奈良の大道(おほち)は 行きよけどこの山道は 行き悪(あ)しかりけり万葉集 巻十五-3728 中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)あをによし奈良、都大路は行きやすいけれども、遠い国へのこの道は行きづらいことよ。
中臣宅守は、中臣東人(なかとみのあずまひと)の七男で、狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)という下級女官を娶ったために越前に流され、そのときの娘子との贈答歌63首が「万葉集」巻15におさめられています。
男女の辛い別離を詠んだ素晴らしいやり取りなので、巻15-3723「中臣朝臣宅守、狭野茅上娘子と贈答する歌」を体験していただけたらと思います。
巻二の大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌と肩を並べるぐらいといっていいほどです。
(maki15-3723で検索できます)
【嶋田神社】(しまだじんじゃ)奈良市八島町祭神の神八井耳命は神武天皇の皇子。
その裔の仲臣子上は成務天皇の時代、尾張国島田の悪神征伐に功があり、島田姓を賜ったとの記録があるため、それにまつわる社名とみられている。
平安末期より春日大社との関係が深くなり、当社と同じく式内社の赤穂神社、御前原石立命神社、天乃石吸神社と共に春日山中に勧請され、春日大社境内末社の紀伊神社脚注 1,四柱として祀られている。
当初の所在地は八島陵西の丘にあった、とする研究がある。
室町期には八島陵の北、字クラノカヰトにあったとの記録が残り7,8,、現在八島陵北西に字「蔵六垣内」が残る9,。
江戸期には崇道天皇社と共に八島陵内に鎮座していたとされる。
1874年(明治8年)の春日大社の記録によると、当時の社殿は桁行69.7cm、梁行45.5cmの小さなものであったという。
1885年(明治18年)頃、当社と崇道天皇社が鎮座していたとされる現八島陵の地を、早良親王の御陵として整備することが決まり、1886年(明治19年)、崇道天皇社の御神体と社殿を下付され、現在の所在地に二神合祀の形で移築された。
所在地: 奈良県奈良市八島町325
毎週行ってますw長い休みになれば毎日行きますw
名前 |
嶋田神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=5684 |
評価 |
4.2 |
嶋田神社(しまだ)式内社 旧村社御祭神:崇道天皇 神八井耳命八島神社・崇道 天皇社ともよばれ、明治一八年(1885年)まで 八島陵(崇道天皇陵)内にあった嶋田社・ 崇道天皇社を移し合祀。
「延喜式」神名帳の添上郡「嶋田神社」に比 定されている。
本殿は、享保一二年(1727)に春日大社本社本殿第三殿を崇道天皇社本殿として現八嶋陵の地に移築されたもの。
明治十九年(1886)八嶋陵整備に伴い、崇道天皇社と嶋田神社を合祀、嶋田神社本殿として現在地に移築した。
わずかに垂木に反りがあって、それが本殿全体を軽やかな雰囲気にしている。
奈良市指定文化財。
神社前の道路に路駐。
かなり狭い道なので注意が必要。