すなわち『陵(はか)の西』から転じて現在の『博西』...
参道は北側の通りからにあります。
屋敷山公園の北側の道を西に金剛山に向かって進むと目印に「博西神社様0.2km」の看板を道路に設けてくださっておられます。
目印の看板から細い脇道を南下して右折、入り組んだ住宅地の路地を進むと杜が見えてきます。
倭文神社さんとしての御由緒もお持ちの神社さんでいらっしゃるそうです。
また屋敷山古墳の関係者様と御祭神様にお関係がおありかもなどと想像させていただきました。
祭神は、北殿が下照比売命(したてるひめ)、南殿が菅原道真(すがわらのみちざね)。
東大寺二月堂 修二会 神名帳第三段八十四位当社の祭神については変遷があり、下照比売は明治時代に天羽雷命(あめのはづちのみこと)から変更されたものであり、菅原道真は中世以降当地の土豪・布施氏によって加えられたものです。
(新庄町史)しかしながら、下照比売は棚機乃女とされている事から分かりますように、もともとは天棚機姫神を祀っていたのではないでしょうか。
奈良時代の書物・『住吉大社神代記』の「山河寄せ奉る本記」において、応神天皇の頃に住吉大社へ寄進された大和から河内にかけての領地の北限について“北を限る 大坂・音穂野公田・陀那波多乃男神女神・吾嬬(あづま)坂・川合・狭山・槇田・大村・斑・熊野谷”と記してあり、陀那波多乃男神女神( たなばたのおがみめがみ)とは、葛城市太田に在った葛城倭文坐天羽雷命神社・棚機神社の鎮座地・葛城市太田のことと推測されます。
葛城倭文坐天羽雷命神社とは機織や裁縫の技術を伝えた倭文氏の祖神を祀る神社で、当社は日本各地にある倭文神社の根本の神社とされています。
また、天羽雷命一柱を祭神としていますが、神社には男神と女神を合祀してあることはよくあることです。
時代が下って、倭文氏の勢力が絶えた為か二柱祀られていた葛城倭文坐天羽雷命神社は、陀那波多乃男神・天羽雷命を奉斎して葛城市加守の加守神社鎮座地に遷座。
陀那波多乃女神・天棚機姫神は、この神を氏神とする布施氏によって、太田からこちら葛城市寺口へ遷座させられたのだと思います。
実際、布施氏は染織・紡織の職能古代豪族・置始氏の後裔氏族と名乗っていますから、陀那波多乃女神・天棚機姫神が博西神社の原初的な祭神であっても不思議はないと思います。
※社殿は重要文化財に指定されています。
本殿は、国の重要文化財です。
名前 |
博西神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0745-69-3353 |
住所 |
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関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=5808 |
評価 |
4.3 |
「葛木(葛城)の道」巻十四の一の十二 葛城市寺口1231博西神社(はかにしじんじゃ)こちらの社の元々のネーミングは、東にある「屋敷山古墳」の西にあるということ、すなわち『陵(はか)の西』から転じて現在の『博西』となったようです。
畏れ多いことで、東の山から立ち上る朝日をいっぱいに受けるロケーションは、この社の神々しさをさらに引き立ててくれています。
また、前面は手直しをせず風格を残したまま、本殿は新しく朱色に塗り替えられているのにも趣があって素晴らしいと感じました。
すぐそばに有名な金村神社があります。
迷わず寄っていきましょう。