古墳跡に作られた城曲輪が残存しているが周囲は完全に...
河内や大和でよく見られる古墳を利用したお城。
古墳としては墳丘をかなり破壊されてしまっていますが、城跡としては後円部に櫓台状の土盛りがあったり、周囲に曲輪状の削平地があったりと、城としての規模は小さいながらも遺構は残っていますので見どころはあります。
現地の案内板の解説があまり詳しく書かれていないので以下参考までに。
かつてここから真西にある布施城を詰めの城としていた布施氏が平時の城として使用していた城を、慶長6年(1601年)に和歌山城より二万石で入封してきた桑山重晴の嫡孫、桑山一晴が大和新庄藩を立藩して再利用、新庄陣屋とし、ここに藩庁を置きました。
(重晴の次男、元晴の系統は隣藩の御所藩を立藩)その後、一尹の代に勅使に不敬があったとして天和二年(1682年)に桑山家は改易。
その後を受けて入封した永井家は定府大名であったためお国入りすることはなく、ここから2キロほど離れた葛上郡松本村(現在の御所市元町のあたり?)に松本御役所を設けたため、藩政の中心もそちらへと移りこちらは使用されなくなったようです。
(藩政の中心が移った後、大和新庄は高野街道の宿場町として栄えたそうです)その後永井家は文久三年(1863年)に文久の改革の余波を受けて櫛羅に陣屋を移し、櫛羅藩を立藩。
翌3月に藩主・永井直哉は歴代藩主としては初めてお国入りしましたが、まもなく明治維新を迎えることになります。
お城として機能したのは実質桑山家の治世までですが、その割には遺構も残っていますし、公園としても屋敷山公園としてキレイに整備されています。
別名、屋敷山古墳。
後の世に墳丘の上に城が築かれるよくあるパターン。
綺麗に整備されているが、当日は閉鎖していて墳丘に登ることはできず。
名前 |
新庄城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0745-48-2811 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.6 |
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古墳跡に作られた城曲輪が残存しているが周囲は完全に公園化している。