きちんと整備されていて、正面に駐車場あり。
清和源氏の流で河内源氏の礎を築いた源頼信の嫡男です。
通法寺跡の山門を潜ると左手にあります。
駐車場は4.5台で短いけど狭い道あります。
案内板より転写⤵️🌿史跡 源頼義の墓 みなもとのよりよしのはか (988~1075)源頼義は父源頼信 母修理命婦の長男として生まれた。
平忠常の乱の際、父を助け乱の鎮圧に貢献し、はやくからその 勇を東国武士に知らしめていた。
永承六年1051) 「浮囚の長」 である安倍頼良(のち頼時) が反乱をおこした際、乱の鎮圧にあたった。
一旦は時を 「従わせたが、その後頼時とその子責任がふたたび謀反をおこしたため、出羽豪族清原の援を得て、 康平五年(1062よう やく乱を平定した 前九年の役)。
また頼義は前九年の役の出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、その 戦功をあげることができたので、その感謝の意味をこめてこの地に八幡神を勧請し、法寺の北側に壷井八幡宮を建立 源氏の氏神とした。
承保二年(1075) 七月十三日、八十八歳でその生涯を閉じ、 通法寺境内に葬られたといわれている。
源頼義が建立した通法寺跡には、頼信、頼義、義家の河内源氏三代の墓が存在する。
平安時代や鎌倉時代の武将の墓はあくまで伝承に過ぎなかったり、後世の供養塔の類が多いが、この墓所は本物のようだ。
こういうものが現存するのは、奇跡に近い確率と言っていいかもしれない。
もちろん、墓碑や石垣は後世に整備されたものである。
梅雨明け間近の時期に行きましたが、特に整備されていないのでまわりは雑草生え放題。
虫も多くて手を合わせたら早急に帰りました。
▪️通法寺跡敷地内に所在します。
河内源氏三代(頼信/頼義/義家)の墓所が点在し、史跡として訪れる人も多い。
▪️アクセス近鉄南大阪線(準急)/上ノ太子駅下車南口改札より徒歩25~30分。
源 頼義(みなもと の よりよし)は、平安時代中期の武士。
河内源氏初代棟梁・頼義は、源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。
源頼信の嫡男として河内国古市郡壺井の香炉峰の館に生まれる。
弓の達人として若い頃から武勇の誉れ高く、今昔物語集などにその武勇譚が記載される。
父・頼信もその武勇を高く評価したといわれ、関白・藤原頼通に対して長男・頼義を武者として、次男・頼清を蔵人としてそれぞれ推挙したという。
源氏三代の墓所。
前九年後三年の役で活躍した源氏の棟梁の地です。
源氏の嫡系ではなかったが、河内源氏=源氏の本流になった。
壷井八幡宮から少し離れた場所ですが、歩いても来れます。
夏場は蜂やヘビが出る場所なので、義家の墓共に軽装での墓参りは控えた方が良いと思います。
河内源氏は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする。
頼信(河内源氏祖)-頼義-義家(八幡太郎)と続く。
源頼朝、足利尊氏は河内源氏の流れをくむ。
源頼義は前九年の役(1051年-1062年)で有名。
奥州安倍氏との戦いに勝利し勢力を拡大させた。
以下、羽曳野市観光協会Webページより。
「11世紀前半、河内国司に任ぜられた源頼信は、壺井に邸宅を構えた。
その子の頼義と孫の義家(八幡太郎義家)は前九年の役や後三年の役で活躍し、武将としての地位を確立した。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖にあたるため、壺井は「(河内)源氏発祥の地」といわれている。
頼義の墓は通法寺跡に、頼信と義家の墓は、南の丘の上にある。
」
源 頼義は、平安時代中期の武士。
河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。
通法寺境内に祀られていました。
三代の中では一番綺麗に残っています。
他の二人は円墳みたいな形状ですが頼義は違います。
車椅子の方もここは立ち寄りやすいかと思います。
きちんと整備されていて、正面に駐車場あり。
名前 |
源頼義墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
源頼義、河内源氏2代目、父源頼信・子源義家平忠常の乱を鎮圧した際に平直方の娘と結婚しその勢力を引継ぎ前九年の役で安倍貞任を討取り伊予守に任ぜられ大宮八幡宮等創建墓は通法寺山門潜り突当り、源頼信・義家墓と違い山間部を登らなくていいので有難い、wikiに拠ると石灯籠は元禄年間柳沢吉保から寄贈、石の墓標や柵は明治末期に作られたものとか、左へ行くと壺井八幡宮。