石碑と10m西に案内板あり。
石碑と案内板が在るのみで、今は保育園成っています。
石碑と10m西に案内板あり。
現地案内板より 現在の長野小学校の敷地一帯には、かつて江戸幕府の譜代大名であった近江膳所藩(滋賀県大津市内)から分かれた本多忠統が、支配体制の強化のため、この地に河内西代藩陣屋を正徳元年(1711)から享保17年(1732)まで置いたことが、古文書付近の発掘調査等でわかっています。
また、平成元年に国の「ふるさと創生事業」の創設を契機に、本市においても、地域の歴史や環境を生かした「ふるさとづくり事業」に取り組み、特に小中学校のふるさとづくり事業として、この地に刻まれた歴史を知るために、陣屋門を模して、本校正門を整備したものです。
近江膳所藩代官所跡 京の都と仏教の聖地高野山を結ぶ高野街道は、平安時代の皇族、公家や、中世から盛んになる武士、庶民の高野山参詣に利用されました。
江戸時代、ここ本多町の交差点から東には、膳所藩代官所がありました。
当時、錦部郡(河内長野市一体)に領地を持っていた膳所藩は、ここ古野村に河内代官所を置きました。
この代官所については、大津市にある膳所藩資料館に明治4年7月の絵図面が残されていますので、その様子がわかります。
陣屋は、保育園の北東に位置し、広さは300坪を超え、北側に門を配置していました。
中には大小の蔵や白州が設けられ、犯罪人を入れる牢屋までありました。
この代官所には、役人が3人勤務し、ほかに足軽などの下役が勤めていたようです。
藩の村方支配は、郡奉行ー地方役ー郷代官ー村役人という機構になっていました。
郡奉行は約4人で月番交代、地方役も約7人いたといわれています。
地元から採用された郷代官は、支配する十数か村の民政を受け持ちました。
もめごとの調停もしますが裁判権はありませんでした。
白州で裁くのは郡奉行以上の役人でした。
河内長野市。
西高野街道沿いの史跡。
代官所跡です。
石碑はこの場所にありますが説明板は少し離れた場所にありました。
遺構などは特に見当たりませんでした。
名前 |
膳所藩代官所跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.1 |
家から歩いて1分です。
私が引っ越してきた63年前には、皆さんが投稿してる灯籠(常夜灯)は元々はこの場所ではなくて20mほど離れた西高野街道沿いにありました。
その場所は今は個人の敷地です。
そして私の記憶では常夜灯の横には小さな防火用水用?の貯水池がありました。
今は埋め立てられています。