旧千早街道沿いにあり要衝を抑えている。
本丸跡の碑はここから数百メートル北側へ下って行ったところ、田んぼの奥にひっそりと佇んでいます。
役場の真裏くらいです(直上ですので付近から役場は見えにくいですが、向かいの保健センターがよく見えます)。
金剛山系から伸びた尾根の両側が急峻な地形となっており、上赤坂城と同様に尾根上に木戸や曲輪を設けたんだろうと推測できますが、特に遺構はありません。
直下には川もありますし、大和へ抜ける街道もありますし、川の対岸には楠木邸伝説地があったりもするので、立地としては良い立地。
なお、森屋の登り口にあった甲取橋・甲取坂の案内板は2020年現在撤去されています。
棚田の、原風景も楽しめますが~中学校の門前左手からのルートは、ショートカットですが…里道ではなく棚田内を通ことに。
回り込みをお薦めします。
他の方も書かれているように、本丸跡の石碑は村役場の西側上方に有りました。
東側の眺望が拡がり、上赤阪城、金剛山方面が望めます。
本丸跡の北側には尾根、谷合があり、北方への備えのように見えました。
(下)赤坂城の戦い元弘元年9月11日 - 同年10月21日(1331年10月13日 - 同年11月21日)後醍醐帝の挙兵に応えるかたちでここ下赤坂城で楠木正成が挙兵。
これに在地の幕府方が直ちに散発的攻撃を開始しましたが、鎌倉幕府は楠木正成を脅威と考え、執権の同族大名、大仏貞直 金沢貞冬 江間越前入道(北条時見)、そして大将格として足利高氏 からなる正規軍・4軍を投入。
大仏貞直は京都から奈良を通って国分から南下、金沢貞冬は大山崎から四條畷を経て南下、江間越前入道(北条時見)は大山崎から渡辺津・京阪京橋付近をから四天王寺を経て南下、総大将・足利高氏が伊賀から西進して1331年11月17日下赤坂城に着陣、総勢10,000で下赤坂城に篭る正成500を包囲しました。
中学校の入り口に下赤阪城址という案内がありますが車では中学校の方へ行っても城址へは行けません。
歩いてなら行けるようですが違うアプローチで行く方がいいでしょう。
この城址から下赤阪棚田がきれいに見渡せます。
ベンチのある休憩所もあります。
太平記にある赤坂城は、下赤坂城と上赤坂城からなっている。
楠木正成の館も含めて山の上にあり、全体で1つの砦になっていると考えると分かりやすい。
北から押し寄せてくる鎌倉幕府軍は、先ず下赤坂城と衝突することになる。
楠木正成が、笠置山にこもる後醍醐天皇に呼応して築城している。
1331年秋 ここで鎌倉幕府と楠木正成の戦いが始まる。
なお、楠木正成軍は、北から攻めてくる幕府軍と戦っている。
遺構はなく、下赤坂棚田の展望台がそのまま下赤坂城址の本丸跡となっている。
その展望台から東の方向の近くに楠木正成誕生の地と伝わっている館がある。
現在、西には棚田が広がる。
遺構はありません。
下赤坂棚田の展望台がそのまま下赤坂城址の本丸跡となります。
丘の上に碑が立っています。
横に駐車場が5台分くらいあります。
(無料)中学校の敷地内を通って上がることになるので、最徐行で通行しましょう。
道は急坂で離合困難な狭い道なので、車の運転に自信のない人は下の方に停めて歩いてきた方がよいです。
城跡は田畑になり遺構としては何もないが、旧千早街道沿いにあり要衝を抑えている。
城址へ向かう旧千早街道にある甲取坂では奇策を用いて戦ったという説明板がある。
名前 |
下赤坂城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.7 |
鎌倉末期、楠木正成の古戦場。
急峻な地形を利用した前衛基地のよう。
写真は東側、千早川を隔てて大和葛城山、金剛山の朝日です。