明かに古墳と判る小山が見えて来る。
仁徳天皇陵古墳東側の3重濠と接した同古墳の陪塚。
遺物や埴輪から5世紀中頃築造と考えられます。
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の東側にあり3重濠と接する位置にあることから、その陪塚の一つと考えられます。
周濠は既に埋没し住宅などになっています。
調査により径約32m、高さ約5.1mの規模の円墳であることがわかりました。
また墳丘の裾に埴輪列のあることがわかっています。
明治45年(1912年)に発掘され、木棺から銅鏡2面(変形四獣鏡・変形五獣鏡)や刀剣とともに、硬玉・碧玉・ガラス玉のほか、滑石で作られた勾玉・管玉・臼玉などの玉類が多数出土しています。
遺物や埴輪から仁徳天皇陵古墳と同じ5世紀中頃の築造と考えられます。
とても綺麗な所で 野良猫ものびのびしてます。
仁徳天皇陵に沿って東側の直線路を歩いていると、民家と思われる建物と駐車場の間に、明かに古墳と判る小山が見えて来る。
今回は近づいてはみなかったが、豪内にある古墳や他の整備されている古墳と比べ、扱いが何となく寂しい感じがしてしまう。
駐車場からしか拝見できません。
中百舌鳥の古墳群の中でも、いわく付の古墳だときいてましたが、案内板などが無いところが、そういった事を物語っているようにも思えました。
明治中期にウィリアム-ガウランドが東方から仁徳天皇陵の遠望写真を撮るが、それには人家が一軒も写っていない。
田園のみである。
しかし手前にポツリと小さく塚廻古墳が写っている。
この陪塚は、今も住宅地の中で隠れるように寂しく存在する。
円墳で国史跡に指定されているこの塚廻古墳は仁徳天皇陵(大仙古墳)の陪塚と考えられているようです。
古墳の囲りには柵が設置されており、古墳内には入ることはできません。
この古墳、わかりにくい。
仁徳天皇陵の周囲を自転車で走っていたら通り過ぎてしまって、引き返してもどこにあるのかよくわからなかった。
明治45年に埋葬部の発掘調査が行われ、大量の遺物が出土されたとのこと。
仁徳天皇陵東側遊歩道を歩いていると比較的大きな駐車場があり、その南側にポツンと小山があり柵で囲われています。
標識等はないのでわかりにくいです。
wikiによると「大仙陵古墳の東側、周濠に接して立地しており、同古墳の陪塚の一基と考えられている。
墳丘は径35m余り、高さ4、5mの円墳で、墳丘裾に埴輪列が確認されている。
近年の調査により周濠があったことが確認されている。
内部主体は木棺である。
1912年(明治45年)に坪井正五郎により発掘調査が実施されており、長さ3m、幅54cmの中央のくぼんだ木板の上から、変形四獣鏡、変形五獣鏡、鉄剣、鉄刀2~3、硬玉、碧玉、ガラス、滑石製などの勾玉7、碧玉製棗玉4、碧玉製管玉70、ガラス製小玉1000個余り、滑石製臼玉数百などが出土している(出土品は宮内庁書陵部保管)。
大仙古墳の陪塚のうち、内部主体、副葬品などの内容の明らかな古墳として重要である。
」
名前 |
塚廻古墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
渋いの一言につきます。
笑古墳を一周してみたくて、地図上から手近で一周できそうなこちらの古墳をピックアップ。
すると、フェンスで囲われて、特に何かできる等はありませんでした。
しかし、入り口がヒト1人分の狭さであった点や、古墳自体の敷地は守りつつ真横に月極駐車場が設置されている点など、堺市の生活風景の一部を垣間見れたような気がしました。
よかったです。
笑。