駐車場は無く道も狭いので自動車で行くのはあまりおす...
駐車場は無く道も狭いので自動車で行くのはあまりおすすめできません。
羽島市の加賀野井にある加賀野井城跡です、ここから北へ行くと木曽川駒塚の渡し跡があります、周りは田畑が広がっています。
畑の中の一角に案内板が建っています。
それだけでも、ありがたいところですが、なぜソテツ?!
加賀野井城(かがのいじょう)は、岐阜県羽島市にかつて存在した日本の城。
加賀井城とも書かれる。
加賀井氏の居城として使われ、現在はわずかに城跡が残されているのみだが、県の史跡に指定されている。
地元の伝承では城の井戸が木曽川の中ほどにあるといい、1586年(天正14年)の洪水や1608年(慶長13年)の御囲堤築造に伴う治水工事で城郭・城地の大半を失ったと推定されている。
長久手の戦いに大敗を喫した豊臣秀吉が、局面の打開にむけて策を練り、密かに10万の大軍を出動させ、織田信雄を撃退した「加賀野井の一戦」の舞台です。
加賀野井氏の居城跡です。
現在は畑の一角となっていて跡形もないです…南に50mのところには、阿弥陀如来立像の説明がありますが、像自体は確認できませんでした。
竹ヶ鼻と並ぶ濃尾国境の砦。
説明板だけです。
道が狭いですから、ご注意を。
近くに住んでいる人から、この説明板等は以前はこの場所ではなく離れたら所に有ったのをこの場所に移転されているとの事です。
堤防沿いで、椰子の木?がそびえ立っていて見つけやすい。
石碑はなく白杭と説明看板あり。
但し雑草だらけで残念。
1584年小牧長久手の戦いの後、膠着状態になったため、秀吉は当時尾張の西方であったこの地域の攻略にかかり、まずは堅城だった竹鼻城を分断するため加賀野井城を攻撃し、多勢に無勢で落城。
1586年木曽川の洪水で大きな被害があったのではないだろうか。
そして城主であった加賀野井氏は落城後も生き延び秀吉の家臣となったが、関ヶ原の戦いで西方に付いたため断絶したこともあって跡形も無くなってしまったのではないだろうか。
いまの本流で分断されたため、そこが国境となり、この地域は美濃となった模様で今日に至る。
1584年小牧長久手の戦いの後、膠着状態になったため、秀吉は当時尾張の西方であったこの地域の攻略にかかり、まずは堅城だった竹鼻城を分断するため加賀野井城を攻撃し、多勢に無勢で落城。
1586年木曽川の洪水で大きな被害があったのではないだろうか。
そして城主であった加賀野井氏は落城後も生き延び秀吉の家臣となったが、関ヶ原の戦いで西方に付いたため断絶したこともあって跡形も無くなってしまったのではないだろうか。
いまの本流で分断されたため、そこが国境となり、この地域は美濃となった模様で今日に至る。
名前 |
加賀野井城跡 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.1 |
10/30 訪問遺構らしきものは見つけられなかった。