知る人は知る徳川家康と縁があるお寺。
妻の実家の近所で立派なお寺です。
側に竜泉寺川がキレイです。
愛知県岡崎市の東、扇子山の下にある小さな集落の外れにある小さなお寺でした。
ここ桑谷の地は昔、蒲郡から岡崎城に抜ける街道の要所でした。
瑞雲山廣忠寺は、曹洞宗の寺院で、永禄5年(1562年)に父松平広忠の菩提を弔うために徳川家康が創建したと伝わっています。
広忠は家康の生母於大の方を迎える前に、侍女として仕えていたという、大給松平和泉守乗正の娘於久の方がいました。
於久の方には、家康の異母兄である忠政がいました。
天正10年(1541年)に於大の方が岡崎城に入ると、忠政を連れて桑谷へ移り住みます。
そこで二人目の男子を出産しています。
僧籍に入った恵最です。
桶狭間で今川義元没後、岡崎城に入った家康は、桑谷に入り広忠の位牌に参拝します。
位牌に「道幹大禅定門尊霊」と自筆で裏書をして、異母弟の恵最開山として、広忠寺を建立します。
境内の山裾には、於久の方(妙琳)、広忠、忠政の墓がありました。
寺宝として家康拝領の大黒天があるそうです。
知る人は知る徳川家康と縁があるお寺。
妻の実家の隣です✌️ポケモンgoで楽しんでます‼️
まさに古刹。
ひっそり閑とした感じが好きです。
Kocyu-ji Temple, with the grave of father of Ieyasu Tokugawa.Ieyasu Tokugawa who is famous as the first Shogun of the Edo Shogunate. A temple and the grave of his father are simpler than my imagination.This is one of tipical temple in the Japanese local city.
徳川家康の父、松平広忠と、異母兄弟の眠る寺院。
家康からは冷遇されたと云われ、お寺もひっそりと佇んでいます。
名前 |
広忠寺 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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家康の父松平広忠公の菩提寺です。
1562年家康が非業の死を遂げた父・広忠の菩提を弔うために創建した寺だそうです。
家康と同年同月同日に岡崎城で生まれた異母兄弟の恵最(穎新)が住職になり、その母のお久の方とともに広忠の供養に勤めたお寺です。
今でも境内に広忠、お久の方、忠政(広忠とお久の方の子)恵最(広忠とお久の方の子)の墓があります。
(中央に弘忠、右にお久の方、左に忠政)家康が戦場に守り本尊として持参したと伝わる大黒天や鎌倉時代の作の観世音菩薩像などの寺宝があります。
簡単な流れ広忠は於大の方を迎える前に岩津大給和泉守乗正の娘お久の方との間に長男勘六(忠政)がありました。
そして1540年に於大の方を迎えたのです。
実は翌年十二月に於大の方が家康出生と時を同じくして(1541年12月26日)お久の方も岡崎城で男の子を産みました。
於大の方に男の子が生まれ、また同年同月同日の男子は後々跡取り問題になるやもしれん等と産まれた子はそのまま出家させるため穎新(えいしん)(後に恵最(えいさい))となずけられました。
広忠は勘六(忠政)と穎新(えいしん)とお久の方に桑谷の地に小さな庵を立てて住ませていました。
(1549年父広忠没)時が流れ、1560年、家康が19歳の時に岡崎城に戻り、そして20歳の時に酒井正親から家康に御兄弟がいることを知らされた家康はすぐさま桑谷に向かったのです。
広忠公の位牌に参拝し、御位牌の台裏に岡崎殿(1字不明)應政道幹大禅底門大夫殿穎新の父也御判と家康直筆をしてまた、難区の中に若くして倒れた父を思いと今独立した喜びを報告して参拝しました。
お久の方も尼となって妙林と名乗り、広忠の菩提の為に一寺の建立をお願いしました。
家康も快くおお応諾し、恵最(穎新)を住職とし、広忠の菩提寺として父の名を寺号にし、この場所に広忠寺を創建しました。
勘六には松平忠政と名乗らせ、私(家康)に仕えてほしいと手を差し伸べたそうです。
(恵最は開山の翌年に没)