藩政をめぐって悪臣たちが暗躍していた。
📖門昌庵松前藩10世6代藩主矩広(のりひろ)は、幼年で藩主となったため、藩政をめぐって悪臣たちが暗躍していた。
矩広は、悪臣からすすめられて女に迷い、政務そっちのけで悪臣たちの息のかかった侍女たちと遊びほうけていたが、ある時家臣・丸山久治郎兵衛の妹で丸山小町とうたわれた「松枝」という女性に思いを寄せ、彼女は矩広の寵愛を一身に受けるようになった。
それを悪臣たちが妬み、彼女が法話を聞くために度々訪れていた菩提寺(法幢寺)の住職柏巌門昌と密通していると讒言(他人を陥れようとして、事実をまげ、悪いように告げ口をすること)した。
矩広は彼女を斬り、門昌を熊石に流し、門昌はその地で草庵を結んだ。
しかし、この頃江戸にいた矩広は病床に伏される日が多く、悪臣たちは「門昌の呪いのせいだ」などど噂したため、矩広は門昌を討つことを命じ、1678(延宝6)年12月22日、ついに無実の罪で処刑された。
最後には経文を逆さに読み上げたという。
首を切られたその時、側に流れていた川が物凄い勢いで逆流し、その川は逆川と呼ばれ今も残っている。
討ち手は首級を松前で晒す為に持って帰ったが、上ノ国の天の川が氾濫していたので、江差町円通寺で一泊した。
その際、首級を置いていた部屋が発火し、この寺が全焼するも、首級は無傷だった。
一同これに恐れをなし、結局持ち帰りを断念して矩広が命じて、熊石の草庵のそばに埋めた。
この草庵を後に門昌庵と呼んだ。
その後、討ち手の一人が発狂し、討ち手を泊めた家でも狂人が出て、さらに討ち手に草鞋を売った店の家内が変死した。
また、松前藩江戸藩邸で家老蠣崎広明をはじめ、5人の家老が相次いで変死し、江戸藩邸も放火された。
矩広の健康もすぐれず、側室の生んだ子はみな若くして亡くなった。
さらに、大凶作にみまわれたり松前城下で火事が起こったり、大風で避難していた船50隻ほどが沈没・破損するという災害まで発生した。
城下の人々は口々に門昌の祟りだと噂し、恐れた。
矩広はついに罪を悔いて、釈迦涅槃図を描いて門昌の菩提を弔った。
後年も門昌庵は米10表金10両を藩主から受け、特に16世12代藩主昌広は五世初代藩主慶広が秀吉からもらった桃山別殿の裏門を寄進した。
名前 |
門昌庵 |
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ジャンル |
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電話番号 |
01398-2-3232 |
住所 |
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評価 |
3.5 |
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由緒あるお寺です熊石の自慢です。