成せばなる・・・の言葉が有名な鷹山公。
上杉鷹山のことは知りませんでしたが、為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけりこの言葉は子供の頃から親に何度も言われていたので知っていました親から聞かされていたのは、為せば成る 為さねば成らぬ何事も まででしたが。
数え切れぬほどの功績を遺された賢人。
城外の像と比べてこちらは立って指をさしています。
勝手に選ぶ江戸時代三名君、鍋島閑叟、保科正之、そして上杉鷹山。
上杉鷹山(ようざん):上杉治憲(はるのり) 1751-1822 「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成さぬは人の なさぬなりけり」という鷹山の名言は、家臣に対して詠んだ歌で、意味は「やれば出来る。
何事もやらなければ成功しない。
出来ないのは、やろうとしていないからだ」となります。
鷹山は1767年(明和4年)、17歳で上杉家を継ぎ、第9代米沢藩主となりました。
折しも藩財政は窮乏(きゅうぼう)を極め、途方に暮れた8代藩主重定は、幕府への領地返納を決意します。
辛うじて思いとどまりはしたものの、藩存亡の危機は変わりません。
鷹山はまず、大倹約令を発し、自ら率先して改革を実践(→自ら質素倹約を心がけ、自分の生活費を約8割カットしたそうです)、慣行(かんこう:以前からのならわしとして通常行われること)を通そうとする家臣らに厳しい質素倹約の生活を求め、領民たちと同じ目線に立つことで藩を立て直しました。
桑の栽培と養蚕(ようさん)を奨励して産業を興し、米沢織・米沢鯉・ウコギ(→植物🌿。
春から初夏にかけての新芽が美味しく、おひたしや天ぷらなど様々な料理法でいただけるそうです。
また、樹皮・根皮は薬用に使われたそうです)、笹野一刀彫(ささのいっとうぼり)など、米沢市の名産・伝統品として今日に受け継がれている産業を根付かせていきました。
鷹山の改革は、鷹山終生の師:儒学者・細井平洲(ほそい へいしゅう、1728-1801)の教えに学んだものでした。
鷹山の正室:幸姫(よしひめ)は、脳の障害や発育障害があったと言われています。
いつまでも子供のような妻と一緒になって、鷹山はお人形やおもちゃで楽しんだそうです。
そんな鷹山を女中たちは憐れみましたが、幸姫が30歳という若さでこの世を去るまで正室として重んじ、幸姫の父からも感謝されたとのことです。
これらのエピソードから、上杉鷹山という人の人柄の良さが十分に伝わってきましたし、「今日も慕われる名君」ということが、とてもよく理解できました❗😌👍&今回、米沢を訪れたことで、上杉鷹山という人が好き(Like)になりました❗😁アメリカの第35代大統領ジョン・F・ケネディが「最も尊敬する日本人」として鷹山の名前を挙げたという逸話がありますが、この逸話の真偽は不明で、鷹山を尊敬していると述べたのは第26代大統領セオドア・ルーズベルトである、という説もあります。
が… ジョン・F・ケネディの長女で駐日アメリカ合衆国大使をつとめていたキャロライン・ケネディが、山形県や米沢市の要請に応じて2014年9月に米沢市を訪れ、父親のケネディが鷹山を称賛していたことに触れるスピーチをしたそうです❗長くなりましたが、以上です❗(^-^ゞ
第35代アメリカ合衆国大統領のジョン・F・ケネディが1961年に就任した際に、日本の記者団に「日本でいちばん尊敬する人物」を聞かれたときすぐに鷹山の名前を挙げたという逸話がある。
1975年に綱淵謙錠と歴史家の奈良本辰也を迎えて放送されたNHKの歴史番組「日本史探訪」が紹介している。
それによると、ケネディは『代表的日本人』により鷹山を知り、政治家の理想像を見たのだとしている。
ただし、この逸話の真偽は不明である。
米沢の歴史を研究する小野榮は、ケネディが上杉鷹山を尊敬していると述べたというのは誤りで、鷹山を尊敬していると述べたのは、第26代大統領セオドア・ルーズベルトであり、彼が鷹山を知ったのは、新渡戸稲造が英文で出版した『武士道』を読んだからだと述べている。
ジョン・F・ケネディの長女で駐日アメリカ合衆国大使をつとめていたキャロライン・ケネディは、山形県や米沢市の要請に応じて2014年9月に米沢市を訪れ、父親のケネディが鷹山を称賛していたことに触れるスピーチをした。
上杉鷹山公といえば借金で困窮に喘ぐ藩を一代で建て直した名藩主ですよね。
鷹山公の伝記やドラマを見たことがありますが、藩主自ら率先しての倹約や改革を推し進める姿に勇気をもらいました。
上杉鷹山公は米沢で一番の歴史的ヒーローなんでしょう、どこに行っても鷹山公に纏わるものが多いです。
記憶の中にしっかり固着されてしまいました。
赤のマフラーが、ギリギリお洒落でした。
お堀に囲われた米沢城跡の中に謙信公をまつる上杉神社の前におわします。
「成せばなる~」の名言で有名ですよね。
全部まとめて見ることができ、是非とも立ち寄りたいスポットです。
近くにお座りになっている像もあります。
上杉鷹山(寛延4[1751]年 - 文政5[1822]年。
米沢藩第9代藩主。
「鷹山[ようざん]」は藩主隠居後の号で藩主時代は治憲[はるのり]。
借金だらけの米沢藩を立て直した偉人で、ジョン・F・ケネディ元アメリカ大統領が尊敬する日本人としてあげた人物)の像です。
上杉鷹山 (一七五一 ~ 一八二二)上杉家十代上杉鷹山公は、困窮、崩壊寸前の藩を復興させた江戸時代随一の名君として知られる。
十四歳の時から、折裏学派の儒者細井平洲に師事し十七歳で藩主となるや、大倹令・産業開発・藩校興譲館の設立・綱紀の粛正などを断行する。
凶作に備え、城下や村々の蔵にもみを備蓄し、天明の飢饉には領民に配り一人の餓死者も出さなかったと伝えられる。
十一代治広公に家督を譲るとき民主主義の原点を示した「伝国の辞」を与えた。
米沢の名物は米沢牛・・・神社見物の後、すき焼きを頂いてきました。
ほっぺが落ちそう!また行きたいな。
歴史好きの自分としては、有名武将に縁のある所に行けて大満足です。
成せばなる・・・の言葉が有名な鷹山公。
潘の財政を立て直すべく奮闘し、皆に慕われた人柄を勉強してから行くと良いですね。
ここにある像は空を指している像です。
座っている像は神社の鳥居をくぐるよりも、前にあります。
神社正面入り口の堀を渡る橋の手前の公園に座っている銅像が別途あります。
銅像の手前にある池がとても綺麗でした!
名前 |
上杉鷹山公之像 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
大倹約令」を発して藩政改革を行い、教育にも力を入れた鷹山は、織物業にも取り組み始めます。
特産の青苧(あおそ)という植物の繊維を原料とした縮織(ちぢみおり)から、その後発展した絹織物のための蚕の養殖(養蚕)にも手を伸ばし、成果を出します。
鷹山の絹織物への思い入れの強さは、隠居後に「養蚕手引」という書物を発行したことからもうかがえるでしょう。
また、農政改革に乗り出した鷹山は、水不足に悩む地域のため、用水事業に取りかかります。
藩と村民が一体となり作り上げた北条郷(米沢市北部から南陽市までの地域)の農業用水路「黒井堰(くろいぜき)」と「穴堰(あなぜき)」は、貧しかった米沢盆地北部の田んぼを潤し、現在も水田に水を送り続けています。
鷹山の改革成功の裏には、武士と藩民一体となっての協力がありましたが、これは鷹山自身が地を耕し、藩のことを思うという、彼の心がけあってのことだといえるでしょう。
第35代アメリカ合衆国大統領のジョン・F・ケネディが大統領に就任した際、「一番尊敬している日本人はだれか」との質問に「上杉鷹山」と答えた、という逸話があります。
当時日本でもそれほど知られる存在ではなかったはずの上杉鷹山を、なぜケネディは知っていたのでしょうか。
現在では、内村鑑三(うちむら・かんぞう)が英文で書いた「代表的日本人」をケネディが読み、そこに記された上杉鷹山のエピソードに心を打たれたというのが定説となっています。
当時、日本でもあまり知られていなかった鷹山がアメリカ大統領の心を揺さぶったことに驚きです。
鷹山は藩政から退いた後も、没するまで農業の研究を続けました。
幼いころに知らない土地で養子として暮らし始めた彼が、生涯をその地の繁栄のために捧げたことからは、改革を引っ張るリーダーとしていかに献身的であったかを知ることができます。
上杉鷹山の生涯や功績については、米沢市の米沢市上杉博物館で見ることができますので、訪れて鷹山の息遣いを感じて頂けましたら幸いです。
行き違い等々の切はご容赦下さいませ。
本所(墨田区)亀沢町6代末孫。