上杉神社にきたら、こちらも訪れないと。
天正6年(1578年)3月13日、越後春日山城で死去した上杉謙信公は、 当初は春日山城内に埋葬され、長尾上杉家の転封に伴って若松城、つい で米沢城内に改葬されたと伝わっています。
昔は、この高台全てが謙信公を祀る大きな祠堂だったそうです。
現在の鉄柵がある内部だけかと、おもったけど、実はすごく大きな祠堂だったんですね。
おそらくあの柵の辺りが謙信公のご遺骸を安置した場所だったのかなと想像してみました。
上杉謙信(享禄3[1530]年 - 天正6[1578]年。
山内上杉家16代当主で、米沢藩初代藩主・上杉景勝[弘治元(1556)年 - 元和9(1623)年]の養父。
自らを毘沙門天の化身であると称した「軍神」)の祠堂(しどう。
位牌を納めておくお堂)の跡です。
上杉謙信 (一五三〇 ~ 一五七八)戦国時代の越後国の大名。
関東菅領。
山内上杉家十六代当主。
越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景の四男として生まれ、初名は長尾景虎。
内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけでなく、産業を振興して国を繁栄させた。
他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、特に宿敵武田信玄との五回にわたる川中島の戦いはよく知られている。
さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが四十八歳で志半ばで死去した。
名前 |
上杉謙信祠堂跡 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0238-21-6226 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
江戸時代、上杉謙信公の遺骸を安置する御堂が建っていた場所です。
明治時代の廃藩に際して、謙信公は上杉神社の祭神となり、加えて遺骸は上杉家代々の墓所である上杉家御廟所に移されたそうです。
祠堂跡に建つ石碑は明治二十四年に建立されたもので、米沢市の石碑の撰文を数多く手がけてきた伊佐早謙が記しました。
現在は柵で覆われて立入できないようになっていますが、かなり風化しており文字がほぼ読めない状況です。
図書館の資料などを頼りに、判読できた原文を載せるので、どうぞ参考にしてください。
「祠堂遺趾碑 伊佐早謙謹撰嗚呼此嘗𠩄安置舊藩祖上杉不識公之遺魄之所也公天正六年三月十三日沒越後春日山乃由遺命殮甕中祠置城之不識菴迨自越後自會津移米澤終奉祠于此明治四年敬斉公移東京城池為公園而祠猶在焉九年曦山老公到米澤以為士女縦遊之區也新営閟官于塋域遂毀舊祠植以松樹構石環之今茲辛𫝁今公與世子到米澤顧曰苟無有所記何以告來茲因命池田成章建碑令謙記之謙惶恐不知所辞避退而謹記顚末抑如公之勲業偉蹟業既炳煜于今古亦不敢書明治廿四年九月 山宮咸一謹書」