国道254号線沿いに長窪城跡の案内看板が設置されて...
武田氏が信濃に侵攻、長窪城の大井氏を降した後、東北信の侵攻拠点とした城。
城跡は郭と堀切が残る。
思っていたよりも小規模な城跡。
搦手まで舗装路が続いているが道幅が狭く、落石の痕跡もあり、脱輪すれば崖に転落する恐れがあるので小型車が無難。
搦手口前に一台分の駐車スペースはある。
転回も切り返せば可能。
長窪古町の東にあって、弁天山から西に張り出した尾根の上にあるのが長久保城跡です。
城跡からは長窪古町全体を眼下に一望できる位置取りです。
戦国末期の商業と物流の飛躍的な発展にともなって、城郭の構築と防御の思想は根本的に転換してしまいました。
一言で言うと、険阻な山岳などに築城してたてこもる方式から、城下街全体をを兵站補給の要衝として囲い込むような軍事的防衛体制を敷き、その中心に城郭を位置づけ、一帯に堅城の支配を恒常的におよぼす方式に転換したのです。
城跡遺構の入り口に立つ説明板によると、この城は別名を深山城または霞の尾城と呼んだそうです。
室町中期(1400年頃)に大井氏または芦田氏(依田氏)によって築城されたのだとか。
大井氏や芦田氏はその頃、佐久や小県に拠点を築いて割拠していた豪族領主たちです。
やがて佐久郡岩村田大井を領し城を構えてい大井家門の一族が長窪城を掌握して長窪を100年以上にわたって統治したそうです。
長窪古町の集落建設や耕地の開拓を指導したようです。
ところが1543年、甲斐の武田家による信濃攻めで城を包囲されて投降し、城は武田勢が北信濃に侵攻するための拠点となったのだとか。
武田勢のなかには、上田から沼田にかけて領地を要する真田家も含まれていました。
しかし、そのおよそ40年後、武田家は織田家の信濃・甲斐討伐で滅ぼされてしまいました。
が、生き残りの策略に長けた真田昌幸は、巧みに立ち回って上田小県を支配する地位を獲得し、さらに徳川家を説き伏せて上田城を築かせました。
その頃には、城郭は難攻不落の山に築く時代が終わって、交通の要衝の都市集落と一体的に城郭防衛を構築する時代になっていました。
昌幸は城下に家臣団を集めたことから、兵站補給線が組織しがたい長窪城は廃棄されることになりました。
長窪古町東側の山城、依田窪病院東から狭いガードレールなしの車道を登ると、城背後のコルに立派な案内板がある。
道端に駐車スペースがある。
尾根に六の郭から五四三と小さな郭と壕が交互にあらわれ、段々に辿る。
標高差20mを約5分で展望台のある主郭・二の郭に到着、西側の斜面が伐採され展望が抜群になった。
整備された訪問しやすい史跡である。
戦国時代の地域の歴史を知るのに良い場所ですかなり道が狭いので車は下の広い場所に止めてから散策されたほうが良いと思います。
山城デスネ。
搦め手口までは車で行けますが、すれ違えないので、対向車が来たら、ちょっと大変かな❗
標高726m。
比高が低くてすぐ登城できる。
主郭が展望台に整備されてのんびり( ´∀`)連続堀切が搦め手にあるけど夏は草多い。
雨降りでも傘さして登城できた。
搦め手からしか行けなくなっているのが残念だけど、それも含めて楽しめます。
名前 |
長窪城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
国道254号線沿いに長窪城跡の案内看板が設置されていました。
城跡まで600メートルの道のりであると記載されていたので、上がってみることにしました。
道は舗装されていましたが、車高の低いあまり大きな車では上がることは難しいのではないかと思いました。
坂を上がると景色が開けており、明るくなってました。
この場所には長窪城の歴史などが書かれている看板が設置されていました。
頂上にある長窪城は大井貞隆の居城として知られています。
1543年に武田信玄が佐久に侵攻して落城してからは、村上氏攻略の前線基地として使われていました。
武田氏の滅亡後は真田昌幸が小県郡を統一したことで、落城となったそうです。
案内看板がある場所からは手入れがされている山道を進んでいきました。
場所によっては急な斜面の場所がありましたが、頂上付近には休憩に使える小屋があってそこから見える集落はとてもきれいでした。