佐土原城と並ぶ重要な拠点として機能していたといわれ...
室町時代に築かれた城跡のため、石垣はありませんが、立派な土塁が残っています。
複数の曲輪がある大規模な城跡で、国指定史跡です。
きれいに整備されており、もっと広く知られて良い場所だと思いました。
24時間無料の広めと狭めの駐車場があります。
駐車場から歩2分で本丸へ上がれます。
スニーカーでもOK。
駐車場近くに本丸と二の丸の矢印がありますが、本丸から堀を下りて、二の丸、三の丸、他曲輪へ行った方が楽しいです。
雨でも行けます。
曲輪の集合体構造なので堀が深い。
くびれも良い。
曲線も鋭角もある。
土塁も分かりやすく視覚でも充分体感できます。
全国の城跡でもトップクラスの楽しさでした。
廻城跡から日向都於郡城跡へ向かい、大隅ともお別れしました。
車で2時間位掛けて都於郡城の駐車場へ着きました。
駐車場はかなり大きく分かり易いところにあります。
都於郡城は5つの曲輪からなり、それぞれの曲輪はかなり広いです。
本丸はある程度整備されていましたが、他の曲輪はかなり草ぼうぼうでした。
しかし、城全体としての威容は感じられ、城跡としては巡り甲斐があります。
本丸には伊東満所(まんしょ)の像や誕生之地碑等もあります。
また、近くの大安寺の裏手には伊東氏歴代墓所があります。
都於郡城は伊東氏代々の本拠城ですが、第10代当主の伊東義祐は近くの佐土原城を居城とし、都於郡城には子の義益が入っていたようです。
1572(元亀3)年飯野の木崎原の戦いで伊東氏は島津忠平(義弘)らに大敗し、それ以後急激に勢力を失い 1577(天正5)年伊東氏一族は、ここの奥ノ城(曲輪)から、豊後の大友氏(宗麟)を頼って落ちのびたようです。
伊東氏が去った後には、島津の武将鎌田政近が入城し、翌年には大友氏との高城合戦が始まります。
尚、日向の伊東氏は、鎌倉時代初期に起こった曽我兄弟の仇討で討ち果たされた工藤(伊東)祐経の子孫であることに興味が惹かれます。
都於郡城。
巨大な土塁、空堀が広く分布。
これほどの土塁はすごいの一言。
周辺も所々に土塁らしきものが散在する。
大きな駐車場もトイレもあります。
散策しやすいです。
近くにはお店はみあたりませんでした。
飲み物は持参したほうが良いです。
都於郡城(とのこおりじょう)にて生誕した伊東マンショ(祐益)を記念し「伊東満所像」が設置されています。
^ ^v【豆知識コーナー】国の史跡としてここ(西都市)に山城がある。
築城は1337年(建武4年)伊東祐持によるもので伊東四十八城の一つ。
別名浮船城。
高さ約100mの丘陵に本丸、二ノ丸、三ノ丸、西ノ城、奥ノ城の5つの曲輪が築かれている。
城は戦乱や失火によって4回も火災にみまわれ1504年(永正元年)城中からの失火により建物器物の大半を焼失したこともあった。
伊東氏は日向国の大半を領して48の城を持ったが佐土原城とともに本城として繁栄した。
伊東マンショはわずか13歳で日本最初の「天正遣欧使節」の代表となりローマに渡りました。
1590年(天正18年)日本に戻って豊臣秀吉と会い秀吉は気に入り強く仕官を勧めたが司祭の道を極めた。
完/多くの画像が投稿されており重なる部分が多く「困りました。
」( ; ; )なので少し視点を変えた画像(三角点等)と【豆知識コーナー】に力点をおいてみました。
日向国(宮崎)の山城として代表的な都於郡城跡です。
一度は行ってみる価値があります。
是非!是非!(^人^)
都於郡(とのこおり)城跡(宮崎県西都市)真夏の城跡探訪その2。
二か所目は宮崎県西都市の城跡、国指定史跡【都於郡城跡】をたずねました。
県道18号を走り、西都市立都於郡保育所がある交差点を曲がっていきます。
城跡近くに無料の駐車場があるので、止めて歩いて向かいます。
少し歩くと、五城郭と言われる【本丸・奥の丸・二の丸・三の丸・西の丸】城跡に到着します。
全ての曲輪が完全に独立しており、曲輪間は10メートルぐらいはある切堀で区切られているので、防御性がとてつもなく高いと感じました。
今回は時間の関係上、奥の丸と本丸のみを回りましたが、5つすべての曲輪を回ろうとすると、一時間以上はかかると思われます。
しかも各曲輪が完全に独立しているので、険しい切堀を上り下りしなければならなくなり、結構体力を使うと感じました。
曲輪上はとても整備されており、土塁も確認できるのでとても見応えがあり、山城跡でここまで曲輪や切堀がしっかりとわかる城跡は、それほどないと思います。
土塁や曲輪・切堀などが好きな方は、是非とも尋ねることをおススメします。
ただ、夏場は草が生い茂っているので、冬場の方が見やすいかな~と思いました。
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名前 |
都於郡城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
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伊東四十八城の1つで、佐土原城と並ぶ重要な拠点として機能していたといわれています。
城内には5つの曲輪があり、五城郭と呼ばれ極めて規模の広大な城だったことは実際に歩いてみて分かりました。
伊東家が島津家との争いに敗れた後は、島津家当主・義久が城内に入り島津家にとっても重要拠点となります。
ちなみに天正遣欧使節の1人、伊東マンショはこの城で生まれており(母が伊東家の最盛期を築いた伊東義祐の娘)誕生碑と慰霊碑と銅像が建てられています。