館跡が残っていて、歴史を感じられます。
躑躅ヶ崎館 西曲輪北側桝形虎口跡 / / / .
広さは周囲の堀を含めて東西約200メートル・南北約190メートル、面積は約1.4万坪(約4.6万m2)と推定される。
外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、中世式の武家館であるが、東曲輪・中曲輪からなる規格的な主郭部、西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪(うち、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪は武田氏滅亡後の豊臣時代に造成)等から構成されると考えられ、甲斐武田氏の城郭の特徴がよく現れた西曲輪虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を配した構造になっている。
2006年の発掘調査では大手口前面の下部から三日月堀が確認され、正確な年代は不明であるが丸馬出が築かれていたことが判明した。
内郭は石積みで仕切られており、東曲輪で政務が行われ、中曲輪は当主の日常の居住空間、西曲輪は家族の住居があったと考えられている。
武田氏から徳川氏、浅野氏の支配の期間を通じて、主郭部に曲輪を増設する形で改修が行われた。
『甲陽軍鑑』では晴信の持仏を納めた毘沙門堂に関する記事がみられ、連歌会や歌会が催される会所であったという。
『高白斎記』によれば、1543年(天文12年)には館の一部を焼失したが、再建されている。
現在、跡地は1919年(大正8年)に創建された武田神社の境内にあたるが、このときに南面の主殿の規模が縮小されている。
また武田神社の本殿を立てる際には南の石垣を崩し、正門を新たに造った。
このときに三重構造の原型の大半が崩されてしまったが、その後の1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。
遺構として土塁、堀、石垣、虎口などがあり、陶磁器などの出土遺物も確認されたほか、神社の近くには往時のままの場所にあると伝えられている井戸が2箇所存在する。
そのうち「姫の井戸」と呼ばれる井戸は、信玄の子息誕生の際に産湯に使用されたと伝えられている。
なお、信玄の時代の通用門は現在の神社東側にあり、内堀によって道と隔てられていた。
疾如風徐如林侵掠如火不動如山疾(はや)きこと風の如く徐(しず)かなること林の如く侵掠(しんりゃく)すること火の如く動かざること山の如し武田信玄は幼い頃から中国の古典をよく学んでいたと言われますが、その膨大な古典からこの言葉を選び出した信玄一流のセンスが伝わって来ます。
名前 |
躑躅ヶ崎館 西曲輪北側桝形虎口跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.5 |
当時の面影が残る1番見ておくと良い場所です。