駐車場は狭いですが、城の入口にあります。
陸奥金山城跡(寝牛城跡・金山要害跡) / / / .
城跡の北東側、113号の細い路地から看板に従い進むと駐車場まで着きます。
城跡はすぐ上からでアクセスし易かったです。
南北に長い城跡のようで、登城口から何段か曲輪を縫うように登ります。
本丸を中心に四方に曲輪があります。
本丸は広く削平されていて、切り岸で周囲と段差がかなりあります。
南東側に一部崩れて石垣がありました。
北側の丸森、角田方面の盆地が一望でき、なるほどの立地です。
柴小屋舘方面も見えると思われました。
夏だったせいで草が繁茂してました。
総体的に良く縄張りが遺っており、本丸の石垣等の見処も多く遺る城跡です。
藪漕ぎも辞さない方には、特にお勧めします。
約450年程前戦国時代末期伊達正宗が相馬氏との領地抗争で初陣し、相馬氏より獲得した領地にある山城「金山城」。
明治維新廃城になるまで仙臺藩伊達家の家臣中島氏の居城として存在していたそうです。
伊達家は一国一城制度の江戸時代に仙臺青葉城以外にも複数城を持っていたことになるようです。
現在駐車場があり、そこから天守まで歩いて登れる道が整備されていました。
所々で崩れた道や石垣がありますが15分程で到着できました。
途中曲輪や門跡、倉跡、石垣等々を見ることが出来ました。
「金山城跡」は往時の様子が垣間見えるようにけっこう整備がされていて、山城の持つ防衛技術が想像できる感じがしました。
ここに建物等々を再現したら、とても良い山城になり、観光や映画、ドラマの良い舞台になるだろうと思いました。
歴史的価値と観光的価値が埋もれている城跡「金山城」。
これからの開発を期待してしまいました。
一部竹藪と化してるが、比較的によく残ってる近年の地震により高石垣が崩れそうになってるけどコンパクトながらに見応えアリ(๑╹◡╹๑)ノ
主郭?の裏手、一部に突然石垣があります。
主郭、説明板が立つあたりからは、周辺を見下ろせます。
見事な眺望です。
戦国時代末、伊達と相馬の戦いの焦点となった城です。
小さな城ですが、ちゃんと城の構造になっていて城マニアなら楽しめます。
石垣は本丸の一ヶ所だけで、訪れる人もいないので道が雑草に埋もれかけていました。
朽ちていく城って感じで雰囲気があります。
本丸からの展望はとても良好です。
歴史の凄さを感じれる所です🤩
標高120mの独立した小山が金山城址です。
相馬氏の家臣により築城されましたが、天正12年(1584)伊達・相馬の争いで伊達氏のもにになり、その戦いで功績のあった中島伊勢守宗求が、大内、金山などの領地と城を与えられました。
それから明治維新まで代々中島氏が城主となって、この地をおさめました。
金山城址頂上大手門附近が石垣で作られています。
東北の山城にしては貴重な石垣と言われております。
遺跡番号 10016名称 町史跡 金山城跡よみがな かねやま時代 中世種別 城館現行市町村 丸森町・本城は中世に於て相馬氏の一大拠点となった所で、天正年間には伊達家が命運をかけて攻撃、天正四年(1576)より八年を用し天正十二年に遂に落城せしめたと伝わるいわくつきの堅城であった。
金山町「郷土史」には、金山町の東方に金山城あり。
此地もと相馬氏の所領にして永禄中其の臣、井戸川将監之を守り、次で佐藤為信及び中村清忠之に拠りしが、天正十二年相馬氏の伊達氏と事を構うるや遂に其れを略取する処となる。
此の役、中島伊勢宗求功ありしを以てこの地に封ぜらる。
爾来殆ど三百有余年の間、子孫代々城主となり、金山、大内、伊手の三邑二千石を食みしなり。
明治二十六年旧臣相寄り、城址に一大記念碑を設立せり、とある。
金山本郷「風土記」にも、当地地頭、中島与市の居館と伝えている。
中島与市とは中島宗求の二男、同苗伊勢宗信のことで、中島氏は伊達一族の格式を誇りこの地に君臨した - 仙台領内古城・館。
見所満載です 雪融け時期がよろしいかと。
3月に訪れました。
季節的に草木は少なく登るのにさほど苦労しませんでした。
石垣が印象的な城跡です。
坂道の傾斜がキツいので、雨振り時は滑ると思います。
ご注意を。
城下町も雰囲気のある民家が数件あります。
駐車場は狭いですが、城の入口にあります。
地元の方が熱心に整備されてるようで、訪ねやすい城跡です。
仙台藩要害の中で、石垣を持つ数少ない城跡です。
なかなか見晴らしがよくすがすがしい気分でした。
遠くは、蔵王が白く見渡せました。
名前 |
陸奥金山城跡(寝牛城跡・金山要害跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
夏は虫が多く必然的に蜘蛛の巣があちこちに有ります。
枝などの棒切れを持って歩くと良いと思います。