4世紀後半から5世紀前半頃の築造と推定されている墳丘長約110メートルの前方後円墳。
二ツ塚古墳築造後に応神陵が築造されたようですが、応神陵は、何故こちらの古墳を巻き込むような感じにしなければいけなかったのか謎ですね。
場所にこだわりがあったのか…?近くで見ると、2基の古墳の合体感がすごくてわかりにいですが、高台から、例えば玉手山公園付近から応神陵を見ると、違いがよくわかりました。
追記 テニスコート内にあり、撮影出来ていなかった案内板の写真を投稿しました。
地方豪族の古墳で、応神天皇陵設営の際も壊せなかった。
昔は応神天皇陵の一部(外堤)だと思っていた。
古墳がそこにあると聞いて、あらためて地図で確認してみると結構でかい。
応神天皇陵の陪塚にしては、ずいぶんりっぱな古墳だと思った。
で、きちんと調べてみると、応神天皇陵よりも、前に造られた古墳のようなことが書かれていた。
いったい、ここに葬られている人物は、どんな人だったんだろう?
名前 |
二ツ塚古墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
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評価 |
3.5 |
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