福だるまを販売、御神酒、甘酒を参拝方に振る舞ってい...
地元で初詣などに行く神社です。
小さいですが、人は結構来ます。
年明け夜中は火が炊かれ、行列が出来ます。
【鷹場標石】二基(年代不明)本殿の右側にあるのですぐ分かるでしょう。
鷹場標石とは、江戸時代の領主様が「ここいらは俺が鷹狩りで遊ぶところだかんな?」と、境界を明示するための標石です。
ここ一帯はかつて尾張藩(徳川家)の領で、同様の標石が83基確認されており、その一部は博物館に展示されていたり、三鷹市では指定文化財となっています。
しかし、鷹場に指定された村落は鷹場法度という規制が敷かれ、狩猟の禁止、家屋の建築時の申請、神事祭礼の際は届け出など、少なからず庶民の負担になっていたようです。
このような状態は寛永五年(1628)~慶應三年(1867)まで続きました。
左側の標石:「従是西北尾張殿鷹場」当時は現在の水道橋近くに建てられていたとされていますが、鷹場が廃止になってからは近くの用水路にかかる土橋の橋げたとして転用されてしまったといいます。
昭和35年に発見されるまで用水の溝(田畑という説もあり)に埋まっていたそうです。
注目すべきは、標石の右側面に盃状穴(はいじょうけつ…矢印部分)らしき凹みがあることです。
盃状穴とは江戸から明治時代にかけて存在した民間信仰で、子宝安産、傷病平癒などの願掛けをしながら庶民が穿(うが)った穴のことです。
水道橋近くには三光院観音堂があるため、鷹場廃止後、橋げたになる前に付けられたものかもしれません。
右側の標石:「従是南西北尾張殿鷹場」かつて岡橋近辺に建てられていたもので、なぜか少し離れた朝霞第三小学校近くで発見された標石です。
左側面が欠けていますが、鷹場が廃止以前だったら大変な処罰を受け、再建築していたはずです。
どちらも同時期に本神社に移設されたといわれています。
いずれにせよ徳川殿、あまり評判良くなかったんですかね…。
【力石】二基(年代不明)本殿から見て右、植木の根元に立ててあります。
本殿寄り側:刻印「三十メ目」同奥側:刻印「三拾六メ目 浜崎 木下」(近隣に木下姓の方が多いので、おそらくご先祖様でしょう)しかし反対面には「三拾五貫目」と刻まれています。
どちらにも盃状穴が多数あります。
実は2021年まではどちらも寝転がっていましたが、ある日再訪したら、なんと立っていました。
神主さんに連絡が付いたのでお話を伺ったところ、「たまに力石を指摘される方がいるので自分で立てた」そうです。
素晴らしいですね!これからも永遠に地元に愛される神社であっていただきたいと思いました。
(あと、できれば力石の説明板お願いします→手伝いますので)
普通の神社です。
創建年代等の御由緒は不詳ですが、江戸時代以前の創建と云われています。
御祭神は素盞雄命です。
北朝霞駅から徒歩で約6分です。
初詣には向かない?1/1の朝行ったら既に宴は終わったって感じで供養する焚火の燃えかすだけで無人。
有り難みも何も無い。
初詣以外はひっそりしている神社です。
お正月は御朱印も受け付けてくれます。
駐車場は4台程のスペースあり。
朝霞市浜崎にある氷川神社 北朝霞駅から6分位歩いた所にあります。
地名の浜崎からもうかがえるように縄文の昔には海と陸が交錯していた場所と思われます。
その当時は岬の先端であったのではないかと思われるような高台のヘリに鎮座しております。
一部引用。
例年並みに、初詣を来られている方も多く、地元の方々が、福だるまを販売、御神酒、甘酒を参拝方に振る舞っています。
翌日も早朝~多く人が参拝に来られています。
規模は地域の神社としてはそこそこの規模です。
社殿の周りには、合祀されたものと思われる境内社が並びます。
比較的、手入れされており、篤くはないものの、例祭などが維持されるレベルで、信仰が残っているのがわかります。
手水も出来ない残念な状態でとても寂れている印象を受けました。
名前 |
浜崎氷川神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.5 |
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地元の守り神様でーすウォーキング時にお参りしております。
小さな神社様ですが、静かで心落ち着きます。
お参りに行くようになって良い事ばかり、心身共に元気いっぱいになりました。