平成29年11月19日訪問。
菊池寛旧居跡・終焉の地 / / .
代表作に父帰るがあります。
以前この地に有った「菊池寛記念会館兼学生会館」は平成11年頃に惜しまれつつ四国高松に移転しました、会館が有った当時のテレビ取材では会館の屋上展示室には菊池寛が愛用したメガネ、万年筆、懐中時計、作品の原稿用紙(父帰る.真珠夫人他)や書籍と芥川龍之介、直木三十五、吉川英治、川端康成、久米正雄、成瀬仁蔵、夏目鏡子(漱石の妻)などからの手紙や葉書などが陳列して有りました。
案内解説してた方は息子さんでした、息子さんは晩年良く、町内会主催のバス旅行に参加していました、私の父とは歳が近く、良く一緒にバス旅行を楽しんでいました。
また三女の寛実さんは港区虎ノ門に菊池寛実記念美術館が有りますまた夏目漱石のお墓はこの地から約700m程の雑司が谷霊園に有ります、斜向いの八百屋さん横の坂道登り.左に直進し霊園内の十字路の右角から約4m先がお墓です。
通ってる書道教室です。
キレイなマンションです。
菊池寛旧居跡豊島区雑司が谷1-32-5 テラス雑司が谷菊池寛は1888年明治21年12月26日香川県高松市に生まれた。
戯曲「父帰る」、小説「無名作家の日記」小説「忠直卿行状記」、などの作品で文壇の地位を確立した。
1923年大正12年雑誌「文藝春秋」創刊、1935年昭和10年芥川賞・直木賞を創設、など後進の育成のも尽力し文壇の大御所と言われた。
1923年大正12年以来、当地から程近い雑司ヶ谷金山に居住していた。
1937年昭和12年に当地に転居、晩年までここで過ごした。
1948年昭和23年3月6日没。
「不実心不成事 不虚心不知事」実心ならざれば事成さず、虚心ならざれば事知らず。
寛の座右の銘として知られている。
1999年平成11年11月 東京都豊島区教育委員会雑司が谷弦巻通り沿いのテラス雑司が谷の通用門前に説明板があるのみ。
西側に料亭「雑司が谷 寛」がある。
大正から昭和にかけて多くの文士が居を構えた雑司ヶ谷。
池袋・目白から近い立地にもかかわらず、どこか懐かしさを感じる町並み。
その一角、静かな住宅街にひっそりたたずむ歴史ある建物が「雑司ヶ谷 寛」です。
昭和に活躍した小説家・三角寛の邸宅であった当店は、作家独自の感性が散りばめられた、趣き異なる6室の個室からなっております。
大切な方々とのお食事、ご接待、お顔合わせなど、幅広い目的で御利用いただけます。
大正から昭和にかけて雑司が谷には菊池寛をはじめ多くの文士が住んでいました。
三角寛も当時交流のあった菊池寛の紹介を受けて1935年昭和10年ここに居をかまえました。
サンカ研究で有名だった三角寛ですが、 漬物や梅干し作りを愛し「つけもの大学」という本を記すなど、料理にも大変な興味がありました。
その血を受け継いだ三角寛の一人娘が、平成元年、女将としてこの地に料亭をオープンさせました。
その後、孫娘に引き継がれ2004年平成16年からは株式会社女将塾が経営をしております。
建物は築90年程になりますが、当時の趣をそのままに、殆ど手は加えられておりません。
各部屋の壁は三角寛がそれぞれ自身で色を調合し塗装を施したそうです。
当時は当たり前だったものの、今ではほとんど見ることのできない一枚ガラスなど、古き良き日本建築を見ることができます。
当店へお越しの際は、どうぞごゆっくりとご覧下さい。
三角 寛1903年〜1971年明治36年~昭和46年大分県竹田生まれ。
本名三浦守、僧名釈法幢。
大正15年朝日新聞社に入社。
東京北部の警察回りの記者となり説教強盗の報道で話題となる。
永井龍男の勧めで小説を書き始め『婦人サロン』に『昭和毒婦伝』を連載し文壇デビュー。
『怪奇の山窩』『情炎の山窩』『純情の山窩』など山窩(サンカ)小説を開拓し、流行作家の道を歩む。
昭和37年学位論文『山窩社会の研究』で東洋大学から文学博士号を受ける。
また同時に漬物や味噌作り研究も行い、『味噌大学』『つけもの大学』を刊行。
戦後は、吉川英治、徳川夢声、井伏鱒二らを株主とする映画館『人世坐』『文芸坐』を経営にあたった。
平成12~13年に『三角寛サンカ選集』全7巻が現代書館より刊行され、当時のファンから、またサンカ研究家としても注目を集めている。
右上写真: 縁側に座る三角寛寛の弁天の間の横の縁側で撮影された当時の様子です。
書道教室あります。
平成29年11月19日訪問。
たまたまこの辺りを徘徊していて発見しました。
今では立派なマンションになっていますが、このような説明書きのボードが設置していて感動でした。
誰がその費用を出したのでしょうか?因みにこの写真だと立派なマンションがわかりませんね。
後日また。
名前 |
菊池寛旧居跡・終焉の地 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.6 |
かつてこの地にあった目白台学生ハイム(菊池寛記念会館)に1年間お世話になりました。
エントランスや管理人室、地下にあった食堂や大浴場、などの様子を今でも覚えています。
携帯電話など無い時代、外部からの連絡は直通ではなく、代表で受けた管理人さんに各部屋の内線へまわしてもらう仕組みでした。
当館はじめ幾つか建て替わった建築物はありますが、周辺の雰囲気は、当時とあまり変わらず、往時を偲ぶことができるのが嬉しいですね。