日本武尊の御陵とされる古墳のひとつ。
5世紀後半の築造とみられる、墳丘長190メートルの3段築成の前方後円墳です。
案内板は前方部の北西側に(外環状線軽里北交差点を東(古市駅方面)へ、一つ目の信号(南斗石油が角)を南へ進んだ場所)にあります。
拝礼所も案内板付近から入っていく感じです。
散策道は、古墳北側から後円部の途中(東側)までは散策可能ですが、南側は見れませんでした。
見れる範囲ですけど、メリハリのついた綺麗な姿の前方後円墳でした。
美しい…。
追記 堺市にあるニサンザイ古墳と設計図が同じのようで、ニサンザイ古墳の66%縮小で、こちらの墳丘の形になるようです。
ニサンザイ古墳絡み…そりゃ美しいはずだわ。
伝説的な大和武尊の古墳です。
おそらくヤマトタケルは実在の人物では無いですが、この古墳の被葬者は大王級の人物でしょう。
伝説にのみ残るまぼろしの皇子陵でしょうか?諸説色々有れども、父景行天皇の命を受け東国征伐で連戦連勝のおごりからか草薙の剣を奥さんに預け、伊吹山の神の化身大きな白猪を軽んじ素手で立ち向って大ケガをしたのが悲劇の始まりでしょうかね?命からがら下山した日本武尊は傷ついた身体で醒ヶ井から鈴鹿山系沿いに倭を目指して帰郷されていたのですが、能褒野(亀山市)で絶命されて此の地に葬られたとの事です。
その後は倭へ帰りたい執念深さなのか、魂が白鳥になられて琴弾原(御所市)に降りられ、そして古市邑の此の地に降りられ、そして天空へと舞い昇ったとの伝説です。
従って埋葬者無き御陵でしょうか?宮内庁では能褒野陵が本陵、琴弾原陵と日本武尊陵を附属陵にされている様ですが、英雄伝説大好きな我らには壮大な古代の謎が多く残されていますね?
閑静な住宅街にある古墳。
周辺は他にも多くの古墳があり一帯は古市古墳群を形成する。
すぐ脇に日本最古の街道(竹内街道)が通ってる。
周回する道路は綺麗に整備されてて散歩コースに最適。
伊勢で亡くなったヤマトタケルが白鳥になってここに飛んで来たから羽曳野という地名なのだとか。
羽曳野の由来となった御陵。
近くでは、白鳥ではないが、イソヒヨドリが何度か上手に囀り、求婚に成功を収めていた。
ヤマトタケルの墓だそうです。
が説明通りなら、死んだ場所からここまで鳥になって飛んで来て、羽を曳くように飛び立ったなら誰も埋葬されてないやん。
と思いました。
想像力が無いからかな?
被葬者:景行天皇皇子 日本武尊実際の被葬者は明らかにされていませんが、第12代・景行天皇皇子である日本武尊(ヤマトタケル)の陵と伝えられています。
(白鳥陵は他国にも複数あり)埴輪などの出土品から、5世紀後半の築造と伝えられています。
拝:2020/07/07
◾️ 白鳥陵古墳第12代景行天皇 第三皇子 倭建命日本人でこの名前を知らない人がいないというほど神話の中でも有名なヤマトタケルの墓陵です。
ヤマトタケルは天皇にはなりませんでしたが、墓陵は他の天皇陵に負けないくらい大きい墓陵です。
ここに訪れたのは2回目ですが、私の中では一番好きな場所かもしれません。
ここに来ると何故か古墳の木々がユラユラ揺れて心なしか喜んでいただいている様な気がしてまいます。
この伝説のヒーローにあやかって私も日本人として誇りを持って生きていきたいと思います。
5世紀後半の大型前方後円墳。
墳丘は、3段に築かれ、円筒埴輪列や葺石を施してます。
ウオーキングコースにもなっており歩道も歩きやすいです。
北側を走る竹内街道からは、墳丘を眺めることが出来ます。
近くには、峰ヶ塚古墳、清寧天皇陵古墳があります。
☺
古市古墳群の南方にあり、5世紀後半に築造された墳丘200mの前方後円墳です。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の陵墓として治定。
日本武尊は第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたります。
熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄でもあります。
僧だからでしょうか、皇子の墓を「陵」というのは「古事記」、「日本書紀」においてヤマトタケルの能褒野陵(三重県亀山市)、2つの白鳥陵(御所市と羽曳野市)のみで、例外的。
北側を竹内街道が通り、良く整備された美しい風景を楽しめる古墳です。
よくある中規模の前方後円墳ですが、世界遺産のリストに入っています。
通称は白鳥陵ですが、日本武尊命とは関係のない古墳ですので、ご注意ください。
景行天皇の皇子、ヤマトタケルの陵墓に治定されている。
遠征途中に死した彼の魂は、日本各地に白鳥となって舞い降りたという伝説がある。
白鳥陵とはなんと美しい呼び名であろうか。
陵墓も名前に負けず、綺麗な姿で颯爽としている。
日本武尊の御陵とされる古墳のひとつ。
日本武尊を祀る白鳥神社は古市駅前に鎮座。
古墳めぐりの一環で。
道がよく整備されています。
お堀は水量豊か。
亀がたくさんいた。
日本武尊。
ヤマトタケルノミコトの御陵に比定。
日本がまだ、倭と呼ばれていた時代。
4世紀前半、ヤマト王権が国内に覇権を成し、全国統一を図る過程で、戦いの総指揮を執った人物。
景行天皇の子息、仲哀天皇の父、応神天皇の祖父にあたる。
東は蝦夷、西は熊襲と渡り合うと言った具合いに、東奔西走。
大活躍、大功績、大貢献と。
最期は敵の刃に倒れ、尊の御霊は、白鳥の姿に形を変え、白鳥陵の地に舞い降りたとか?御陵命名の所以ともなっているような。
古墳周囲の小道もよく整備されていて、きれいでりっぱな古墳。
調べてみると「日本武尊の陵墓との伝承がある」とのことでしたが、結局誰の古墳がわかっていないということですよね?気になるなぁ・・・。
でも、謎は謎のままでおいておいた方が、ロマンがあっていいかも。
前方後円墳で天皇陵でもあるこの白鳥天皇陵(前の山古墳)は宮内庁によって管理され、一般人の立入はできません。
古墳正面には拝所があります。
また、濠にはたくさんの水が張り巡らされていて鳥なども観察することができます。
回りがよく整備され 水も豊か渡り鳥も 来ている。
お墓とはいえ、四季折々で変化する景色が素晴らしい。
周りは住宅地なので一定の配慮は必要。
ヤマトタケルノミコの関係する古墳。住宅地の間に丸石のボコボコした参道があり参拝場所に続きます。
名前 |
白鳥陵古墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
古市古墳群を代表する古墳の一つで北面が竹内街道に面していて其処からの眺めが非常に美しいです。
周回は南側が住宅地に成っていて完全とは行きませんが南面を展望出来る場所も有るのでそちらからの風景もなかなか良い物でした。
後円部には古くからの周回路が有るので南面だけ迷わなければ周回は可能です余談ですが近鉄古市駅近くに有る看板でこの古墳の壕の名前が『前の池』だと最近知りました。
この古墳の正式名称も軽里大塚古墳に成ってますがやはり『日本武尊白鳥陵』と呼びたいですね。