名前 |
藤井織之助遺髪之碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
日高屋本店さん北側の道を入って行って昔の旧道(人一人の歩道)沿いにあります。
よそ宅の中を通る感じでえ!と思いますが大丈夫なよう(道)です。
お墓の周りも草が多くて注意しないと見過ごしてしまいます。
以下十津川村サイトより織之助は文政10年(1827)大字永井、千葉清宗の第五子として生まれた。
若くして平谷藤井広吉の養嗣子となり藤井姓となる。
19歳の時、江戸に出て剣術を鏡新明智流の桃井春蔵に学んだ。
文久3年(1863)京都に上り、御所の警衛にあたる等勤皇運動に力を尽くし、広く志士達と交わった。
高野山義挙には、銃隊の軍監兼隊長として出陣、戊辰の役には、十津川御親兵第一番中隊司令官補助として北越に出兵した。
この時、長岡城の攻撃に際し、腹部に敵弾をうけ、到底回復の望みのないことを悟り、自刄した。
42歳であった。
新潟県小千谷市極楽寺には、墓及び田中光顕の撰文並びに書による碑が建てられている。
修正 小千谷に行きましたが極楽寺には現在埋葬されていなくて戊辰戦争関連のお墓はすべて船岡公園の一画に集められています。
この藤井織之助の他十津川郷出身者として二村傅次郎、岡本文次の名前もありました。