歴史ある古墳を感じることができる。
西浦白髪山古墳(清寧天皇河内坂門原陵) / / .
清寧天皇河内坂門原陵(せいねいてんのうこうちのさかどのはらのみささぎ)前方後円墳ですが、墳丘長が115mなのに対し、前方部の幅が128mで墳丘長を超えるという変わった形をしています。
この幅の広い特徴的な前方部の形は、前方後円墳の時代の終わりあたりに見られる物です。
拝所のギリギリまで住宅が迫っていますが広くて立派な拝所でした。
堀には水がありますが、墳丘まで渡り堤が伸びており、宮内庁の方たちはボートを使わずそこから墳丘の管理をしに行くようです。
渡り堤を設置して堀を隔てるのは個人的には一種の破壊のような気が…なるべく堀は埋めずにボートを使ってほしいです。
清寧天皇(444〜484、享年41歳)は民を慈しんで良い政治を行ったと言われていますが詳しい事は記されていません。
生まれた時から「白髪」だった(アルビノ?)ため、この古墳も「白髪山古墳」という別名が付いています。
また、子がないまま崩御したので、清寧天皇の大叔父にあたる履中天皇系の皇子がこれから皇位を継承していく事となりました。
天皇陵指定されていてそれなりの大きさと形を持った立派な古墳で高屋城の支城として用いられた歴史も有るのに何故か案内板が無く、拝礼所の前に謎の空地が有ったりウォーキングトレイルの順路からも道が絶妙に拝礼所前を避けて設定されている等、世界遺産申請に伴ったアレコレで直前で弾かれたのかもしれない不遇な天皇陵です。
外環状線を挟んで反対側に有る倍塚(小白髪山古墳)にも案内板が無く宮内庁指定の石柱が有るのみ(歩道を挟んで謎のスペースが有る)で不遇感を増しています。
旧170号線より竹内街道に入る参拝道入口には清寧天皇陵の名も入った案内の石碑が有るのに・・・。
◽コメントするにあたわず・・・。
◽恣意的寓話のなかに封印された科学的検証がなされていない故に、文化財としての価値を有しない築山。
◽アクセス・近鉄南大阪線/古市駅:徒歩20分。
被葬者:第22代・清寧天皇実際の被葬者は明らかにされていませんが、第22代・清寧天皇の陵と伝えられています。
出土した円筒埴輪破片の特徴から、6世紀前半に築造されたものと推定されています。
拝:2020/07/07
古市古墳群の南方にあり、6世紀後半に築造された墳丘115mの前方後円墳。
宮内庁により清寧天皇陵として治定されています。
清寧天皇は、御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪(アルビノの可能性もある)であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたとも言われています。
后がなく、皇子がいないことを気に病んでいましたが、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせます。
翌年二王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子としました。
「宋書」倭国伝によれば清寧の父、雄略天皇は自らを倭国王と称すとある。
「宋書」がいう倭の五王のひとつ武の国王である。
雄略はかなり派手、その人生は波乱で朝鮮半島の百済、新羅、任那、加羅地方にも勢力を伸ばしていた。
彼の息子である清寧は在位はわずか4年(西暦480-484年)。
業績は何も残っていない。
しかし清寧は現代まで自らの陵を残した。
それだけでも幸せである。
今、清寧は羽曳野の緑豊かな前方後円墳に静かに眠っている。
古事記によると、“御子のシラガノオホヤマトネコの命(清寧天皇)、大和のの磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)の宮においでになつて天下をお治めなさいました。
”抜粋: 古事記 現代語譯古事記稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳大和のの磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)の宮跡には現在、御厨子神社がある。
第22代清寧天皇陵。
周囲は住宅が密集しており車を停めるのも一苦労。
清寧天皇は第21代雄略天皇の子だが子供がなく、父雄略が殺した市辺押磐皇子の子たち(第22代顕宗天皇、第23代仁賢天皇)を迎えた。
元来アルビノで白髪であったといい「白髪皇子」と呼ばれていた。
前方後円墳で天皇陵でもあるこの清寧天皇陵(西浦白髪山古墳)は現在、宮内庁が管理しているため立入は禁止されています。
濠に盛土がされていて古墳内部まで行く道が計2本ありますがいずれも渡ることはできません。
名前 |
西浦白髪山古墳(清寧天皇河内坂門原陵) |
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ジャンル |
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電話番号 |
06-6210-9742 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.9 |
中には入れないけど大きかった家と家の間にあるのでびっくり!