沼南の歴史をあるく No.48車ノ前五輪塔 室町時...
大きな五輪塔である。
高さ1メートル60センチ。
土台や軒が縦長で重心が高いものは時代が新しい。
室町時代頃のものであろうか。
誰の供養塔か分からない。
当時これだけ大きな石材を入手できたのは相当な財力を持つ在地豪族で、おそらく将門を祖と仰ぐ下総相馬氏が建てた墓塔であろう。
ここは妙見堂跡だという。
近所の人々は2月21日には将門の命日と称して妙見講のお籠もりを行うとか。
講でお茶会をするが、五輪塔にお茶をお供えすると風邪をひかないそうだ。
誰の供養塔か分からないが、将門の第三夫人とされる車御前を供養したものであるという。
車御前が亡くなった時、この地で火葬して埋葬したとか。
車御前は中村庄司良忠の娘で、桓武天皇の皇女である車内親王になぞらえて将門が名付けたという伝承が福満寺にある。
取手市戸頭には「御所車」という珍しい地名があり、将門の妾の館があったという伝承がある。
車御前は将門討死後、この地に隠れ住んで遺児を出産したのち出家し、妙見菩薩をまつる妙見堂を建てて将門一族の菩提を弔いながら遺児を育てたという。
名は若松。
この子が二歳のとき車御前は亡くなったそうだ。
つくばみらい市筒戸に『将門の乱の後、平良文が当地を巡検した際、五歳になる若松に対面したという。
幼いながら容貌衆に優れていたため「ああ御出子」と嘆じたという。
これが地名になって「御出子(おんでし)」というようになった。
』という伝承が残っている。
ここは将門の弟である大葦原四郎将平の本拠地であったことから、おそらくは将平の遺児であったろう。
茨城県桜川市にある磯部稲村神社は謡曲「桜川」で知られるが、そこで配布される資料に次のような記述がある。
>桜児は 平良文の四男 四郎将平の子なり。
つくばみらい市杉下集落に「車御前」(中村庄司の娘)が住んでいたといわれている。
この地の土豪である中村庄司の居館があり、後裔がこの場所で小貝川の水運業をしていたと伝えられる。
将門の命日は2月14日といわれる。
2月21日は葦原四郎将平が討たれた命日なのかも知れない。
おそらくは将門の弟である将平の愛妾が残党狩りから逃れて沼南大井の地で隠棲しているうちに亡くなったのであろう… 大きな五輪塔は将平と車御前を供養したものかも知れない。
将門は「相馬郡大井の津をもって京の大津とする。
」と宣った。
平将門山と呼ばれる大井の台地からの眺めが近江の大津に似ているとか。
(船戸古墳群に円墳があり、ここを将門山と呼ぶ。
)倭名類聚抄によれば、相馬郡には大井・相馬・布佐・小溝・意部(おふ)・余戸(あまりべ)の六郷があり、柏市の大井地区は大井郷のあった場所とされる。
ちなみに大津川という名称は近代に付けられたと考えられ「大津ケ丘団地」も将門伝承によって名付けられた。
将門公の第三夫人車御前の供養塔と言うことですが北側にある福満寺さんとゆかりが深く御前の姿見の井戸と言われるものがあります この供養塔の下にもかつて湧水があったようですが今は確認できません 昭和の頃までここから東に300mラポワールと言うアパートの北の畑に生家跡があったと言われていましたがその痕跡も今は残って居ませんでした。
沼南の歴史をあるく No.48車ノ前五輪塔室町時代のものだそうです。
畑の中の小さな森の中の祠って言う感じでひっそりとあります。
未舗装のあぜ道を通るので自転車・バイクならそのまま行けますが普通乗用車以上だと無理だと思います(私はマウンテンバイクで訪問しました)。
名前 |
車ノ前五輪塔 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.8 |
道がわからず苦労しました。
前は、五輪塔だけでしたが、いつの間にか、お社ができていました。