川崎市制80年を記念し建設された橘樹郡(川崎鶴見神...
旧橘樹郡役所跡記念碑 設立の記 / / .
川崎市制80年を記念し建設された橘樹郡(川崎鶴見神奈川区)役所の跡を記念する碑である。
橘樹と書いて「たちばな」と読む。
それもここの説明板に書いて欲しかった。
治維新の後、川崎市のほぼ全域と横浜市鶴見区・神奈川区などは「神奈川県橘樹郡」という行政区域に含まれていた。
明治34年(1901)に神奈川町(現在の横浜市神奈川区)が横浜市に編入されると、大正2年(1913)に川崎宿の中心であった砂子(現在の川崎区砂子)に置いた。
平成16年(2004)3月、郡役所の川崎移転から90年、川崎市制80周年を記念して、「旧橘樹郡役所跡記念碑」が建立された。
碑があり、下のように書かれていた。
明治11年の郡区町村編制法により、神奈川町成仏寺に橘樹郡役所が設置され、橘樹郡内の行政を司った。
明冶21年に郡役所が新設され、その後郡制か施行されると、郡長のもと各地代表の郡会議員により、道路・治水・教育・産業などが議せられた。
明治三十四年(1901)神奈川町の横浜市編入により、橘樹郡の中心は、産業開発著しい川崎町に移り、大正二年(1913)現在地の川崎町砂子に威風堂々とした郡役所が建てられ、川崎・保土ヶ谷二丁と十七番の行政に当った。
群南部の臨海埋立地には京浜工業地帯が形成され、人口増加による都市化が進む一方、北部農村地帯も私鉄の沿線開発や近郊農業の発達になどにより大きく変貌した。
大正十三年(1924)七月川崎に市制が施行され大正十五年(1926)郡役所は廃止された。
その後川崎・横浜の市域拡張により、昭和十三年(1938)には半世紀にわたり親しまれた「橘樹郡」の名も消えることになった。
郡役所の川崎移転から90年。
ここに川崎市制80周年を記念して、往年の地に「旧橘樹郡役所跡記念碑」を建立し、万葉集にも歌われた橘樹の名を永久に留めることにした。
名前 |
旧橘樹郡役所跡記念碑 設立の記 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.8 |
説明文には『「旧橘樹郡役所跡記念碑」設立の記明治十一年(一八七八)の郡区町村編制法により、神奈川町成仏寺に橘樹郡役所が設置され、橘樹郡内十町百十一村の行政を司った。
明治二 十一年(一八八八) 同町内に郡役所が新設され、その後郡制が施行されると、郡長のもと各地代表の郡会議員により、道路・治水・教育・産業 などが議せられた。
明治三十四年(一九〇一) 神奈川町の横浜市編入により、橘樹郡の中心は、産業開発著しい川崎町に移り、大正二年(一九一三) 現在地の川崎町砂子に威風堂々とした郡役所が建てられ、川崎・保土ヶ谷二町と十七村の行政に当った。
郡南部の臨海埋立地には京浜工業地帯が形成さ れ、人口増加による都市化が進む一方、北部農村地帯も私鉄沿線開発近郊農業の発達などにより大きく変貌した。
大正十三年(一九二四) 七月川崎に市制が施行され、大正十五年(一 九二六) 郡役所は廃止された。
その後川崎・横浜の市域拡張により、昭和十三年(一九三八)には半世紀にわたり親しまれた「橘樹郡」の名も消えることになった。
郡役所の川崎移転から九十年。
ここに有志相集い、川崎市制八十周年を記念して、往年の地に「旧橘樹郡役所跡記念碑」を建立し、万葉集にも歌われた橘樹の名を永久に留めることにした。
平成十六年三月三十日旧橘樹郡役所跡記念碑設立委員会 』と書かれています。