最上三十三観音の参拝でお伺いしました。
10/2(日)晴天むしろ暑いくらい。
今日は尾花沢を巡りにまず養泉寺さんに。
さすがに日曜は巡礼の方が大勢ですね。
後からお参りする方のため、御詠歌を簡単に唱えてお参りしました。
養泉寺、最上巡礼の番号では25番になります。
本堂は明治28年に火災にあい、30年に再建されました。
元禄2年におくのほそ道の松尾芭蕉が尾花沢に十泊したうちの一週間過ごした寺になります。
観音様をお参りして、天気も良く時間があれば寺より坂をちょっと下ると北西に鳥海山、西に葉山、月山が見える。
また、本堂手前右手には、松尾芭蕉の句碑、すずし塚もあるお参りと歴史を堪能してみてください。
仁王像の横にお馬さんがいました。
作家の森村誠一さんも訪れたそうです。
奥の細道で松尾芭蕉の石碑もありました。
2022.7.28
最上三十三観音の参拝でお伺いしました。
コロナウィルス感染症の影響で二年間延期されていた霊場御本尊の御開帳(観音堂の観音様)です。
弘誓山養泉寺といい天台宗のお寺で、観音霊場第二十五番札所になります。
観音堂の中でお勤めをしました、別称で尾花沢観音と呼ばれています。
元禄二年(1689年)五月十七日に堺田を出立した松尾芭蕉は、山刀伐峠を越えて尾花沢へ入り鈴木清風を訪ねた。
芭蕉は清風の自宅で三日間の厚遇を受け、その後月山と鳥海山を望む養泉寺に宿を取り七日間もの長い時間を寛いで二つの句をこの地で残している。
観音堂に祀られている御本尊は聖観世音菩薩で、慈覚大師の作と伝わり六沢観音と同じ木から作られたといわれる。
別当の養泉寺は東叡山寛永寺(江戸上野)の直系のお寺で、維新前までは相当の収入もありたいへん格式の高い寺であったが、明治維新の改革で田畑が没収されたため一時は観音堂の堂守のようになってしまった。
明治二十八年六月二十日に起きた尾花沢大火の際に、旧観音堂は焼失してしまったが御本尊は別当が持ち出したため無事であった。
明治三十年七月に観音堂は再建され、盛大な遷座式典が行われた。
友達の家が在るところです。
奥の細道で、松尾芭蕉は尾花沢には計画的に訪問予定日を調整していたようだ。
それは当地名産の紅粉(べに)花の開花時期と合わせたもの。
紅粉花は女性の化粧品の紅の原料になる花で、夏至の少し後の時期に一斉に咲きはじめる。
滞在したのは、出羽の俳壇の重鎮であるとともに、紅粉花を取扱う豪商の鈴木清風宅、そして近所の養泉寺。
清風宅は商いのため落ち着いて滞在できないとの配慮から、清風は養泉寺へ案内したようだ。
芭蕉たちの尾花沢での滞在は10泊11日に及ぶ。
うち養泉寺に7泊している。
近郊に住む俳人たちが次から次にやってきて、芭蕉たちを歓待した。
そして歌仙興行を開いている。
現在、養泉寺の境内には歌仙の表四句の句碑があった。
涼しさを我宿にしてねまる也t芭蕉つねのかやりに草の葉を焼t清風鹿子立をのへのし水田にかけてt曽良ふゆづきまるし二の丸の跡t素英。
話術のある住職さまと、とても優しい副住職さまがいらっしゃいます。
3月の祖父の葬儀の時からお世話になり落ち着くところです。
冬季は立ち入り禁止になっていました。
最上三十三観音第25番尾花沢で松尾芭蕉が俳句を残した糸すすきが植えられています。
最上三十三観音霊場 25番札所 天台宗 聖観音菩薩 芭蕉が滞在した寺と言われている。
養泉寺は最上三十三観音 第二十五番札所尾花澤観音として有名です御朱印は境内左の御朱印受け所へ留守の時は 道路向かいの自宅へ次に大石田町へ行く際は小学校の方から(学校坂方向)行くと良いです。
芭蕉は、〔奥の細道〕の旅(元禄2年)で、尾花沢に10泊している。
大半をこの〔養泉寺〕に宿泊した。
境内に〔涼し塚〕と呼ばれる芭蕉の句碑がある。
涼しさを我宿にしてねまる也その隣に〔壺中居士〕とした碑があるが、壺中は山形・村山地方を代表する俳人で〔山寺〕の〔蝉塚〕を建立した人でもある。
この他に〔芭蕉十泊の地〕〔芭蕉連句碑〕もある。
奥の細道松尾芭蕉が七拍したお寺。
名前 |
養泉寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0237-22-0669 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
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雰囲気のあるお寺。
お寺のすぐ下の坂から見る夕陽がきれいでした。
田んぼに水が張ってあったら、超絶景スポットだと思いました。