1505年、初代玉縄城主・北条氏時の発願によって開...
かつては玉縄城の砦や関所の役目も担っていたらしい。
現在は静かな浄土宗のお寺です。
観光寺ではないですね。
開山は1505年と意外に新し目?玉縄城主北条氏時発願。
というか平良文・忠光・忠通公等三浦氏の祖先に当る人々の供養塔目当だったのでJR大船駅から大分歩いて登ります本堂から右にくぐって直ぐ松平正次一族の墓所も。
両親がお世話になりました。
落ち着いた佇まい‼️
9月に亡くなった親友のお墓参りに行って来ました。
お墓の場所がわからなかったら、お墓がある場所まで、行ってくださり、助かりました。
👍
藤沢散策で渡内を散策して、観て来ました。
静かな佇まいで、良かっです。
紫陽花の似合うお寺です❗️
凄くいい天気だっていい場所散歩良く出来た渡内でした。
浄土宗、きれいで冷暖房完備。
近くの村岡城の城主のお寺。
緑豊かで富士山を眺めながら静かな永遠な場所。
浄土宗のお寺。
戦国時代の玉縄北条家所縁の寺院。
玉縄城主北条氏時公の開基。
戦国時代には玉縄城の一部に組み込まれ二伝寺砦が築かれた。
境内に平安末期の名将で坂東平氏の祖、平良文公の御廟所が存在する。
平良文公の菩提寺。
浄土宗。
北条家全盛期の玉縄城主、北条綱成公は最初は黄備え隊を率い、後に玉縄衆を率いて、上杉謙信や武田信玄を苦戦させ活躍した関東一の武勇を誇る将で、敵将武田信玄から激賞された。
上杉謙信も自分が苦戦した綱成公が武田信玄に敗戦した際は自分の事の様に悔しがった。
秀吉による北条家本家の改易蟄居後、北条綱成公の孫、北条氏勝公の代に徳川家に下り1万石の小録で下総国岩富城に転封された。
※玉縄北条家のその後。
北条氏勝公は子がなく無嗣断絶を恐れ、信頼を置く実弟の北条繁広公を嗣養子に迎えるが、繁広公を煙たく思う重臣の堀内一族による保身の為の画策で、繁広公を差し置いて徳川家の親族に成っていた保科家から養子の北条氏重が迎えられた。
北条氏勝公が没すると北条氏重が堀内等の画策で幕府により後継者承認され、これに怒った北条繁広公と忠臣達は幕府に対して談判を行った。
暫くすると北条繁広公は突然死し、これは当時から現代に至るまで堀内一族による暗殺と伝承している。
玉縄北条家を継いだ北条氏重は掛川に三万石で移封されるが結局無嗣断絶により改易。
玉縄北条家の改易後、堀内一族は厚顔無恥にも旧地藤沢に帰り帰農し、忠臣面し玉縄北条家の他の忠臣達の功績をさも自家の手柄の様に喧伝し今に至る。
特に福島家や付家老間宮家の手柄を現在の堀内も自家の手柄と吹聴している。
しかし古文書から、それ等の功績は間宮家を始めそれぞれの手柄と判明している。
戦国時代の玉縄北条家所縁の寺院。
玉縄城主北条氏時公の開基。
戦国時代には玉縄城の一部に組み込まれ二伝寺砦が築かれた。
境内に平安末期の名将で坂東平氏の祖、平良文公の御廟所が存在する。
平良文公の菩提寺。
浄土宗。
北条家全盛期の玉縄城主、北条綱成公は最初は黄備え隊を率い、後に玉縄衆を率いて、上杉謙信や武田信玄を苦戦させ活躍した関東一の武勇を誇る将で、敵将武田信玄から激賞された。
上杉謙信も自分が苦戦した綱成公が武田信玄に敗戦した際は自分の事の様に悔しがった。
秀吉による北条家本家の改易蟄居後、北条綱成公の孫、北条氏勝公の代に徳川家に下り1万石の小録で下総国岩富城に転封された。
※玉縄北条家のその後。
北条氏勝公は子がなく無嗣断絶を恐れ、信頼を置く実弟の北条繁広公を嗣養子に迎えるが、繁広公を煙たく思う重臣の堀内一族による保身の為の画策で、繁広公を差し置いて徳川家の親族に成っていた保科家から養子の北条氏重が迎えられた。
北条氏勝公が没すると北条氏重が堀内等の画策で幕府により後継者承認され、これに怒った北条繁広公と忠臣達は幕府に対して談判を行った。
暫くすると北条繁広公は突然死し、これは当時から現代に至るまで堀内一族による暗殺と伝承している。
玉縄北条家を継いだ北条氏重は掛川に三万石で移封されるが結局無嗣断絶により改易。
玉縄北条家の改易後、堀内一族は厚顔無恥にも旧地藤沢に帰り帰農し、忠臣面し玉縄北条家の他の忠臣達の功績をさも自家の手柄の様に喧伝し今に至る。
特に福島家や付家老間宮家の手柄を現在の堀内も自家の手柄と吹聴している。
しかし古文書から、それ等の功績は間宮家を始めそれぞれの手柄と判明している。
1505年、初代玉縄城主・北条氏時の発願によって開山。
玉縄城と尾根続きのこの場所に、砦の役割を担わせるために創建された寺と伝わる。
浄土宗のお寺。
名前 |
二伝寺 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0466-23-8258 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.1 |
神奈川県藤沢市に有ります「二伝寺」です。
この寺は様々な時代の武将に縁のある場所との事で訪問です。
また、自分の出自の人物にも関わりが有る様なので一度来たいと思っていました。
二伝寺の創建年は戦国時代の永正2年(1505年)で、小田原北条氏が領国支配していた時期です。
開基は北条氏時との事です。
また、その後荒れ果てた二伝寺を中興したのが徳川家康が家臣の松平正次との事です。
先にも触れましたが、この二伝寺(というかこの地)は様々な時代の武将に縁が有り古くは平安時代中期に、京の都から下向した平良文が近くの山城「村岡城」を築城し、この二伝寺辺りに居館を建て所領としたとの事です。
平良文は坂東武家平氏の祖であり、子孫は複雑に枝分かれして沢山の武家へと繋がっています。
「鎌倉殿の13人」の源頼朝の重臣達(御家人達)をはじめ、源頼朝挙兵の初期に源頼朝を助けた武家の殆どが、この平良文の後裔です。
平(五郎)良文はこの地の村岡という地名から、村岡(五郎)良文という別名も持っていました。
因みに、ここは後裔の三浦氏が建てた供養塔であり、墓所ではないとの事です。
(住職談)墓所は、これまた一時期所領としていた香取市に有ります。
自分の出自はこの平良文に繋がるとされていますので、香取市の墓所ともども訪問し少し掃除などして参りました。
また、平良文は「平将門の乱」では平将門にお味方したと伝わります。
平良文の子である平忠頼が将門の娘・春姫を正室にしていた関係からと思われます。
因みに平良文は平将門の叔父に当たります。
そして鎌倉時代には平良文の後裔(息子の1人である平忠光の子孫)三浦氏が、この地を所領としました。
更に時代は下がり、戦国時代にはこの地は小田原北条氏の領国となり、北条早雲が永正9年(1512年)この二伝寺近くに「玉縄城」を築城しました。
当時この二伝寺は玉縄城の縄張り内に有り、二伝寺砦という出城?的な物が有ったとの事です。
因みに北条早雲の本姓は伊勢氏(伊勢平氏)であり、伊勢氏は平良文の異母兄弟である平国香の後裔とされており(将門の乱で将門と敵対した叔父の一人がこの平国香)、遠い親戚の血族である小田原北条氏が、後にこの地を治めたのも、是非にあらずでしょうかね。
(平国香の後裔には平清盛なども居ます)その後更に時代は下がり、徳川家康が関八州に国替えされた坂東(関東)移封にともない、家臣である松平正次がこの地を所領として拝領され、その際に荒れ果てていた二伝寺を中興したとの事です。
松平正次や正次の正室、また正次直系の子孫の墓所が有りました。
小田原北条氏系の遺跡は、徳川氏(豊臣氏)に負けてしまった時に淘汰されてしまった様で、何も残っていませんでした。
様々な時代の武人を見守って来た寺(または地)で、歴史的観点から非常に感慨深い場所でした。