鎌倉の八百数十年の歴史 を感じます。
鎌倉の八百数十年の歴史 を感じます。
58.問注所旧蹟の碑アクセス:JR鎌倉駅西口から徒歩5分。
「市役所前」の信号を左折、今小路にでる。
すぐ「御成小前」の信号がある。
その信号の角の左手に「問注所跡」の石碑が建っている。
現在、石碑付近には大きなマンションが建てられており、石碑から当時の様子を伺い知る状況となっている。
由来 :・鎌倉幕府の裁判機関として政所に続いて源頼朝が1184年(元暦元年)に設置しました。
・問注所跡の前を通る道はかつて今大路と呼ばれ、化粧坂から長谷大路までをつなぎました。
・当初、問注所は訴訟に対する裁判事務は行わず、武家棟梁である源頼朝へ訴訟事案を進達することを任務としていた。
・『吾妻鏡』には、頼朝邸内の東西にある小さな建物を問注所と号したとある。
・頼朝邸内に多数の訴人が集まり、怒号・喧噪が飛び交ったため、頼朝はそれにうんざりし問注所の移転を命じた。
その結果建久10年(1199年)4月1日、問注所は別の場所へ移転されたが、その直前に頼朝は死亡していた。
・現在、移転後の地(現御成小学校前)には「問注所旧蹟碑」が立てられている。
・また由比ガ浜から問注所へ向かう道筋に、「裁許橋」があり、さらに、訴訟の結果、由比ガ浜で処刑された者の供養のための六地蔵などがある。
アーニー(原文)阿仏尼。
御成小学校に見とれていたら反対側の交差点角にあるのを偶然見つけました。
…鎌倉タイムによれば… 鎌倉幕府の裁判機関として政所に続いて源頼朝が1184年(元暦元年)に設置しました。
頼朝の伊豆配流時代から助力を惜しまなかった三善康信が執事となり、以後三善氏の一族が執事を世襲しました。
当初は源頼朝の屋敷である大倉幕府内にありましたが、第2代将軍源頼家の時代に現在石碑が設置されている御成小学校前の地に移設されました。
問注所跡の前を通る道はかつて今大路と呼ばれ、化粧坂から長谷大路までをつなぎました。
大正時代にできた石碑がある。
名前 |
問注所舊蹟碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.7 |
建物の角に、石碑のみ。
場所が判明しているだけマシか。