逗子・葉山駅すぐの田越川沿いの民家前の空き地にポツ...
三浦胤義(みうらたねよし)は、承久の乱で、後鳥羽上皇側に属した武将で、北条政子が承久の乱で後鳥羽徐上皇を討つように鎌倉武士を説得する演説をした際、「逆臣」と名指しされた武将でもあります。
この三浦胤義には11才を筆頭に5人の子供がいました、承久の乱後、北条義時により処刑の命令が出ました。
しかしながら、源頼朝公の挙兵を助けた三浦大介義明の妻(三浦胤義の祖母)の「せめて上の子だけは見逃してほしい」との嘆願により、残りの子供達が処刑された場所に残された碑となります。
この地で、一番上の子を除く9歳、7歳、5歳、3歳の幼い三浦胤義の遺児達がこの田越川に引き出され斬首されました。
また、残忍さは当時でも耐えがたく、兵たちも子供らの眼を見る事すらかなわず、陽が沈み川辺が闇に包まれて、子供の顔が見えなくなるのを待って処刑されたのだと伝わっているそうです。
長く悲劇を伝えてきた場所ですが、空き地の脇にある石碑がその謂れも今でも伝えています。
逗子・葉山駅すぐの田越川沿いの民家前の空き地にポツンと建っています。
三浦胤義の5人の子供のうち4人が謀反人の子として処刑された場所です。
1922年(大正十一年)11月に建立された石碑。
上泉徳彌(海軍中将)謹書。
田越川の川沿いに位置しており、承久の乱で敗死した三浦胤義の4人の子供が鎌倉幕府側に捕らえられ斬られた場所として伝わる。
承久の乱で破れ自刃した三浦胤義(たねよし)の遺児五人の内、長子を除く四人の処刑が執行されたと伝わる場所。
四人はそれぞれ九歳、七歳、五歳、三歳であったと言う、、、北条義時の命をうけた三浦義村は、部下の小川十郎に指示し刑を執行した。
泣き叫ぶ幼子を目の前にし、小川十郎とその配下は居た堪れず、その姿がよく見えなくなる日没を待ったとの話が伝わる。
このような悲劇の地が、こんなに駅の近くに有る事は、あまり認知されていない。
三浦平九郎、草燃えるでは柴俊夫さんが演じてました。
名前 |
三浦胤義遺孤碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.5 |
三浦胤義の幼い子供達が斬られ、その慰霊碑と言う事てますが宝治合戦で法華堂で自害した三浦一族の名簿にも名前がありこの話はちょっと創作の部分が無きにしもあらずですが京浜急行逗子葉山駅から踏切渡り田越川沿い近いですがやや分かり難い所に有ります。