道路脇の鉄製階段を登ってすぐ。
眺めが良い。
三浦氏の前線基地みたいな城。
マリーナ一望のスポット。
日影茶屋の向かいにある小山で、道路脇の鉄製階段を登ってすぐ。
山頂は広くはないが、平らになっていて、眼下に葉山あぶずり港、葉山新港、葉山マリーナが見える。
空気が澄んでいれば江ノ島の向こうに富士山や伊豆半島が見える。
この山のあたりに三浦氏大多和義久の城があったとされていて、頼朝が伊豆に流されていた時の平家方監視役で、娘と頼朝の間にできた子を、平家を恐れて殺害した事で有名な、伊東祐親の供養塔がある。
名前 |
旗立山(鐙摺城址) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
25mの高さですので、10分程で登れてしまいますが、この地を治めた三浦氏との縁の深い場所であり、「旗立山」、「鐙摺山」、「軍見山」と3つの地名をあります。
まず、「旗立山」の謂れは、石橋山の合戦に敗れた源頼朝公を救うための軍勢が戦いに間に合わず、軍勢を引き返す帰路に、当時は平家側であった畠山重忠の軍勢と小競り合いとなり、後に三浦一族の隆盛を導いた三浦大介義澄がこの山に旗を立てて気勢を上げ軍勢を鼓舞したという伝説から旗立山とも呼ばれています。
次に、「鐙摺山」は、挙兵前の源頼朝が、鐙摺にあった太多和三郎義久(三浦大介義明)の別館を訪れた際、頼朝公がこの山に登る際に、頼朝公の鐙が摺れたことから、頼朝が鐙摺山と名づけたとも伝わっています。
また、平家討伐後は、鎌倉を追い出された愛妾、亀の前をこの鐙摺にある大多和義久の屋敷に逃したこともあり、頼朝は度々この鐙摺を訪れたともいいます。
なお、頼朝公の最初の妻であった八重姫の父親である伊東祐親公がこの鐙摺山で斬首されたと伝わっており、その伊東祐親公の供養塔もあります。
三浦家と源頼朝公の深い繋がりが分かる場所でもあります。
最後は、別名「軍見山」とも呼ばれます。
源頼朝公と深い信頼関係を築いていた三浦氏(三浦大介義明・三浦義澄)ですが、最期は宝治合戦で北条氏に滅ぼされてしまいます。
その後は、傍流の相模三浦氏による再興されますが、最期には、伊勢新九郎率いる後北条氏に攻めらて滅ぼされてしまいます。
その戦いの中、小坪の住吉城(住吉城址)から退却する三浦道寸がこの山に登って敵を偵察したことに因む地名と伝わっています。
初期、隆盛、最期と三浦氏の歴史に因む3つの名前が、この小さな山にあると思うと不思議な感じがします。