歩くとプラスチックみたいな音がする。
1984年(昭和59年)にマンション建設に伴って発掘調査が行われた、中世の墓地および寺院跡の遺跡。
寺院は、洲崎町に現在もある龍華寺の前身で、源頼朝が開いた浄願寺であったともいわれています。
現在遺跡は大部分が破壊され、一部が隣接地に造詣保存されていますが、あまり訪れる人はいないようです。
ハリボテでありよくできたセットレベルこれは史跡ではないと思う。
歩くとボコボコと音がする『はりぼて』。
遺跡を感じることができません。
無学なここのマンションを建てた連中のために貴重な遺跡が破壊されました。
横浜市の歴史遺産?対する姿勢には頭にきますね。
保存状況が、今一つ。
規模も小さく、時間に余裕が有れば、寄って見ても良いのでは?と言う程度。
ここには北側にあるマンションからはアクセスすることができないためお気を付けください。
遺跡は保存されているわけではなく、プラスチックのレプリカによって再現されていました。
たどり着くための階段も急でしたが横須賀近くまで見渡せるその眺望は最高でした。
夕暮れ時に乙津れるとなお良いかもしれません。
歩くとプラスチックみたいな音がする。
もったいない。
上行寺の東側丘上のマンション前に、鎌倉·室町時代の建物があった遺構をそのままの形で、巨大なレプリカを作り展示した。
そこから西方面遠方の山波に朝夷奈切通のV字が見える。
浄願寺跡を破壊してライオンズヒル金沢八景の建設を許可し、マンションが建設された。
ライオンズヒル金沢八景敷地に存在した“六浦の上行寺東遺跡(旧浄願寺跡)”の破壊容認した横浜市が後々、事の重大さに気が付いて隣に復元と嘘をついて強化プラスチックで作った偽遺跡が上行寺東遺跡のレプリカ。
教育委員会が己らの罪を紛らわす為に作った偽善的フェイクの無意味な張りぼて。
偽遺跡。
破壊された浄願寺(廃寺)の史跡は洲崎の龍華寺の前身寺院。
開基は源頼朝公、開山は文覚上人と凄まじく由緒正しい寺院だった。
源頼朝公は修験道と真言宗と日本の神々を大切に信仰していた人物で、山岳信仰の霊場として六浦山中に浄願寺を開いた。
徒然草の著者として有名な兼好法師も住していたと伝わる。
しかし後に戦火に遭って焼失し、山中に保存状態の良いまま廃寺に成っていた。
戦国時代に菅原道真公の子孫の菅野家や太田道灌公によって現在の龍華寺として洲崎に移転し再興された。
その周辺を含めた眺望は後に金沢八景と呼ばれ日本屈指の美しい場所だった。
しかし現代に至り昭和期に横浜市の埋め立て工事によって失われてしまった。
横浜市の土木事務所は歴史的に取返しの付かない観光資源と歴史風致地域の破壊を行ってしまった。
更に上行寺東遺跡もマンション「ライオンズヒル金沢八景」の建設時に横浜市が多くの学者と郷土史家と地域住民の反対を無視して開発許可を出してしまった為に無残に破壊され、この世から消えてしまった。
現在、横浜市教育委員会は己らの罪が無かった事にする様に無意味な張りぼての複製品を造り「上行東遺跡」と嘘の展示を常設している。
浄願寺再興の寺と成った龍華寺は一時期、龍源寺と号した。
関東屈指の名軍師、太田道灌公も信奉していたので太田道灌公が寄進した不動明王像が現在も伝わる。
横浜市域に在って、とても綺麗で御寺らしい立派な御寺。
北条早雲公や徳川家康公も、この御寺に滞在した。
当時は周辺は金沢八景と呼ばれた景勝地の一つ、洲崎の景勝地だったので多くの文化人や名将達が別荘代わりに龍華寺に滞在した様だ。
明治時代の神仏分離令施行までは洲崎神社の別当寺でもあった。
現在は花の寺としても周辺住民から愛されているが、戦国時代~江戸時代の当時は御寺だけでなく洲崎地区事態も六浦も能見堂も野島も含め金沢八景と呼ばれた一所であり風光明媚な観光地であった。
貴重な大きな遺跡だった。
見たかったなぁ。
昔破壊される前冒険して見ていた方がいたので『凄いだょ』と聞かれた。
作っておられた方が悲しいです。
破壊された為レプリカって意味がない。
しかし、遺跡について書かれた文献が存在しないことなどを理由として、歴史学者や市民団体の反対に関わらず建設工事が強行され、遺跡は破壊されてマンションが建設された。
隣接するライオンズヒル金沢八景の建設を許可し、マンション建設予定地に存在した“六浦の上行寺東遺跡(旧浄願寺跡)”の破壊容認した横浜市が後々、事の重大さに気が付いて作った場所。
教育委員会が己らの罪を紛らわす為に作った偽善的フェイクの無意味な張りぼて。
偽遺跡。
破壊された浄願寺(廃寺)の史跡は洲崎の龍華寺の前身寺院。
開基は源頼朝公、開山は文覚上人と凄まじく由緒正しい寺院だった。
源頼朝公は修験道と真言宗と日本の神々を大切に信仰していた人物で、山岳信仰の霊場として六浦山中に浄願寺を開いた。
徒然草の著者として有名な兼好法師も住していたと伝わる。
しかし後に戦火に遭って焼失し、山中に保存状態の良いまま廃寺に成っていた。
戦国時代に菅原道真公の子孫の菅野家や太田道灌公によって現在の龍華寺として洲崎に移転し再興された。
その周辺を含めた眺望は後に金沢八景と呼ばれ日本屈指の美しい場所だった。
しかし現代に至り昭和期に横浜市の埋め立て工事によって失われてしまった。
横浜市の土木事務所は歴史的に取返しの付かない観光資源と歴史風致地域の破壊を行ってしまった。
更に上行寺東遺跡もマンション「ライオンズヒル金沢八景」の建設時に横浜市が多くの学者と郷土史家と地域住民の反対を無視して開発許可を出してしまった為に無残に破壊され、この世から消えてしまった。
現在、横浜市教育委員会は己らの罪が無かった事にする様に無意味な張りぼての複製品を造り「上行東遺跡」と嘘の展示を常設している。
浄願寺再興の寺と成った龍華寺は一時期、龍源寺と号した。
関東屈指の名軍師、太田道灌公も信奉していたので太田道灌公が寄進した不動明王像が現在も伝わる。
横浜市域に在って、とても綺麗で御寺らしい立派な御寺。
北条早雲公や徳川家康公も、この御寺に滞在した。
当時は周辺は金沢八景と呼ばれた景勝地の一つ、洲崎の景勝地だったので多くの文化人や名将達が別荘代わりに龍華寺に滞在した様だ。
明治時代の神仏分離令施行までは洲崎神社の別当寺でもあった。
現在は花の寺としても周辺住民から愛されているが、戦国時代~江戸時代の当時は御寺だけでなく洲崎地区事態も六浦も能見堂も野島も含め金沢八景と呼ばれた一所であり風光明媚な観光地であった。
遺跡については、詳しく説明して下さってる方が居ますし、遺跡の破壊の件も同意見です。
星の数は、再現模型の高い技術に対してです。
実物から型取りそれを強化プラスチックで複製し、組み立てた言ってみれば「実物大のジオラマ」ですが、知らなければマズ判らないです。
ただ、横浜教育委員会の説明板では「保存方法」となっていますが、決して保存では無いと思います。
また、遺跡へと上る急な階段の脇から山の中に入って行くと古道の雰囲気が残る山道へ行けます。
特に目ぼしい所はありませんが、草が生い茂った城址や切り通しを観るのが好きな方には、割と面白い造作が観られるかも知れません。
堀割りや平場、雛壇状の地形など。
名前 |
上行寺東遺跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
045-671-3284 |
住所 |
〒236-0031 神奈川県横浜市金沢区六浦1丁目1−4195番地 |
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://yokohama-kanazawakanko.com/spot/institution/reki/reki009/ |
評価 |
2.9 |
よくこうやり方で残したものだなぁと感心しました。
やぐらは有りますが中身の五輪塔がありません。
何だかごみ捨てばになっています。
寂しい限りですね。
謂われの書いた案内板はあります。
結構急な階段がありますので行かれる方はきおつけて下さい。