普段は誰もいない、地域の社。
御祭神 楠木正成公合祀神 誉田別命 健御名方命南北朝初期の延元二年(1336)足利尊氏の軍勢に敗れ、楠木正成は自刃しました。
言い伝えによると、遺臣らは主君の首を塩漬けにし、旅に出ました。
たまたま館林を通りかかり大樹の根元で休んだ後、いざ出発の段になって首が重たくなり運ぶことができなくなりました。
そこでこの地に葬り、小祠を建てたのが楠木神社の始まりと言われています。
(「館林観光ガイド」より)城沼から出た鶴生田川は、楠木神社の西を下り、神社南側を東に抜けていきます。
鶴生田川には三月後半からたくさんの鯉のぼりが架かります。
楠木神社の西側、商事会社挟んで鶴生田川沿いに、目立たないですが「古蹟洗堰」と刻まれた石碑があります。
そこには「延元二年七月二日楠木正成公の首級を洗ひたる所」と刻まれています。
鳥居を潜って石畳の参道途中に小さな神橋があり、その右手に大きなクスノキがあります。
「幹まわり20m、高さ40mにもなるもっとも寿命の長い樹木の一種である。
樟脳をとる木としても有名。
葉をもむと良い香りがする。
このクスノキは樹齢百年を超える名木である。
」(境内案内板より)社殿右側面に稲荷大明神や八幡宮石祠と並んで、神樹坐碑と楠木神社坐碑が建っています。
「六条河原に晒された首級は正成公のものではなく、宇佐美河内守正安の首級を以って正成公の首級としたものです。
本物の正成公の首級は塩漬けにして橋本八郎正員ら七名の遺臣が持って甲斐へ逃げました。
三浦越中守義勝に寄り、橋本正員は山本五郎国正と名を変え、他の六名も皆名を変えましたが敵の追撃に遭い、山本と太田の二名は殉死しました。
残った五名は微服を纏って敵の追跡を避け、北畠顕家を頼ろうとして陸奥へ向かう途中、この地を通りかかった時に炎熱焼くかの如き暑さに見舞われ、巨松の陰で午睡をとっていたところ霊夢を得ました。
正成公曰く、しばらく此の地に鎮座すべしとして、樹下に首級を葬らせ一祠を造営しました。
足利氏からの嫌疑を避ける為に楠から久須の二音を省いて乃木神社と号し、この巨松を神木と仰ぎました。
五名は此の地に土着して五苗と呼ばれ、子々孫々奉仕することにしました。
明治五年(1872)の政府神社調査の際に神官が誤って祭神を草野姫命としてしまった為、木呂子退蔵などの有力者の力も借りて里人が上表し、二十年の歳月をかけて誤謬を正しました。
明治二十五年(1892)九月三十日に楠木神社と改めました。
」(境内石碑より)
館林里沼の日本遺産を構成する神社のひとつです。
この神社には、楠木正成にまつわる言い伝えがあるそうです。
正成が湊川で足利尊氏に敗れ自害したあと、その家臣であった五人は、主君の首を笈に入れ、六部となって廻国しました。
そして、この辺りに来たとき、その笈が急に重くなって動けなくなりました。
そこで、この場所に首を埋め、祠を建て、彼等も土着して主君の供養をすることに決めました。
これが楠木神社の起こりであると言います。
そういえば、渋川市の木曽三社神社も、源義仲の遺骨を入れた笈が動かなくなった…ということになっています。
こちらも境内に立派な楠木があることから、後世に生まれた伝説かも知れません(*^^*)楠木正成が英雄として祀られ、教科書にも載っていた時代には、この社に参詣する人々も多かったのでしょう。
立派な池の跡もあり、敷地も広大なものですが、いまは寂れて廃墟のようであり、駐車場も出入り禁止になっていました。
大河ドラマの「太平記」では、正成を武田鉄矢さんが好演していましたが、昔のようでなくとも、欲得を離れて戦った誠実な武将として、もう一度見直されてもよいのではないでしょうか(^_^ゞ
本殿に彫刻がありますがガラスの覆いがありしかも全く手入れがされていないので汚れて中が殆ど見えません。
残念です。
普段は誰もいない、地域の社。
由緒や創建を知れる様な物は無い。
無人郷社楠木まさしげ伝説 五名伝承。
名前 |
楠木神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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評価 |
3.4 |
他の神社に迷惑をかけるのはやめてください。